ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

「ソフィ カル—限局性激痛」原美術館コレクションより @北品川・原美術館

『限局性激痛』1999年

1984年、私は日本に三ヶ月滞在できる奨学金を得た。10月25日に出発した時は、この日が九十二日間のカウントダウンへの始まりになるとは思いもよらなかった。その果てに待っていたのはありふれた別れなのだが、とはいえ、私にとってそれは人生で最大の苦しみだった。
私は日本滞在こそが悪の根源だと考えた。1985年1月28日、フランスへ帰国すると厄払いのために、滞在中の出来事ではなく、私の苦しみを人に語ることに決めた。その代わり、友人だったり、偶然出会っただけの人だったりするその話し相手にも、自分が最も苦しんだ体験を語ってもらうよう頼んだ。ほかの人々の話を聞いて私の苦しみが相対化されるか、自分の話をさんざん人に話して聞かせた結果、もう語り尽くしたと感じるにいたる時まで、私はこのやりとりを続けることにした。この方法は根治させる力を持っていた。三ヶ月後、私はもう苦しまなくなっていたのだ。厄払いが成功してしまうと、ぶり返すのが怖かったので私はこの一件を忘れ去った。十五年たって、私はそれを掘り起こすのである。
                                ソフィ カル

 ‥‥第一部は、その「破局」へのカウントダウン。日本へ向けての出発のその「九十二日前」からの、毎日(日によっては何枚も)撮られた写真、そして彼女が受け取った手紙などが展示され、その写真には「XX DAYS TO UNHAPPINESS」との赤いスタンプが、まさにカウントダウン的に押されている。「その日何が起きたか/何をやったか」ということが、キャプションとして書かれている。
 だいたいそもそもが彼女、「海外に三ヶ月滞在できる奨学金」をもらったけれども、海外に行きたいという気もちもさらさらなくって、「では世界でいちばん行きたくないところ、<日本>に行こうではないか」と決めるのだ。自分から<不幸>を呼び込んでいるというか。
 それでさらに、<日本滞在期間>をできるだけ短くするため、そのフランスからの旅程をロシア経由で(つまり「シベリア鉄道」を使って)中国に入り、香港まで行ってそこでようやく旅客機で日本へ入国するという計画を立てる。これで旅に一ヶ月かかる。そんなに日本滞在が嫌なのか、という感じだ。シベリア鉄道では通りかかるたびに彼女をのぞき込んで来る男だとか、コンパートメント(寝台室)でいっしょになってしまった、チェス好きのロシア人のおやじだとかとの話が挿入される。見ていて、「コレって何なんだろう?」って感じ。
 ようやく日本に滞在し始めるが、ここにフランスからとつぜんにエルヴェ・ギベールがやってきて彼女に会ったりとかということも。アーティストとして、街で出会った盲目の人にプレゼントをするなどとのことを行い、その写真も示されてもいる。フランスに待っている<彼氏>からの手紙も展示。
 浅草寺でひいた「おみくじ」で、<凶>をひき、その「おみくじ」もまた展示されていたのだけれども、それがあまりに的中していたということでも笑ってしまうところもある。

 つまり彼女は日本滞在も終わり、ニューデリーのホテルの261号室に宿泊、そこで待ち望んだ<彼氏>との再会がかなわないとの知らせを受け取る。「病院に搬送されたため」という知らせに最悪の結果も想像するけれども、それは「肉に爪が食い込んだため」という不可解な理由であり、彼女は彼に連絡し、彼には新しい恋人が出来、彼女と別れる意志があることを知る。「破局」。
 彼女はそのニューデリーの客室で泣き明かし、そのホテルの部屋はそっくり今回の展示で再現されていて、<分岐点>となる。

 第二部は彼女の<癒し>を求める行為というか、自分が彼を失ったいきさつを人に話し、その話した相手からも、<つらかった体験>を聞き取る。これを、ソフィの発言はグレイの布地に白い糸で<日本語文字>として刺繍し、相手の体験談は白い布に黒い糸で刺繍して示す。この「奇妙な手間」のなかに「アート」がある。第一部と同じような九十日のあいだに何人もの人々に自分の体験を話し、相手の<苦しみ>を聴く。たいていのそういう<体験>はやはり、「失恋」の体験だとか、愛する人の「死」というものが多い。
 彼女が話す「体験談」は時が経つにつれて簡略化されて行くというか、変化を見せて行く。彼女の言葉を綴る<糸>の色がだんだんにグレイに近づき、そのラストには地の布地の色とほぼ同じになる。つまり、彼女の<苦しみ>が癒された、ということだろう。

 ‥‥人の不幸を笑ってはいけないのだが、やはり「アンハッピネスなドキュメンタリー」を見せてもらった気分だし、そもそもが「アート」としての独自性を感じるというより、「そういうことって誰にでもあることじゃん」ということも思う。
 しかい、そういう第一部の写真の積み重ね、第二部の「刺繍」ということの中に「アーティスト性」を読み取ることにはなり、ちょっとエンタテインメント性を備えた表現として楽しんでしまった*1
 

*1:しかしこのあと、わたしが愛用していたマフラーをJR駅のどこかで失くしてしまったりしたので、それは「ソフィ・カルの呪い」なのではないかと思ったりした。