ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

「岡上淑子 フォトコラージュ 沈黙の奇蹟」@目黒・東京都庭園美術館

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 近年、大規模に再評価熱の高まる岡上淑子の、とりあえずは総括的展覧会といっていいのでしょうか。
 今回こうやって彼女の作品を総括的に観て、やはりそこに「廃墟~ディストピア」的な世界観も読み取れることに注目し、「これは今の時代に再評価されるわけだ」とも思う。

 1928年生まれの岡上さん、そのハイティーンのいちばん多感な時期に、渋谷周辺で生活されていたらしい。戦争が終わり、「すべてが解放された!」というとき、彼女は洋裁を学び始める。おそらくこのとき、彼女は「アメリカの最先端のファッションはどういうものだろうか」という興味から、古本屋に出回るアメリカの雑誌を蒐集したのでしょう。そこでおそらく、「自分が目にした<終戦間近の日本の惨状>」と、アメリカの雑誌に掲載された「きらびやかなアメリカのファッション」との<落差>に、<めまい>に似た感覚を覚えられたのではないかと想像する。
 自分が現実に目にした「廃墟」と「ディストピア」な世界からは「非現実」とも思えるだろう、すでに高度消費世界を実現していたアメリカの画像。彼女には、そういったアメリカの雑誌の写真のきらびやかな世界は、自分の目の前にある現実の世界に比べて「虚像」と感じられたのではないだろうか。その「虚像」を手元に引き寄せ、「ここ、日本に住む<わたし>と、アメリカのファッションにあこがれる<わたし>」との非現実的な落差、この<落差>を彼女は埋めなければならないと(無意識的に)思ったのではないだろうか。その「現実」〜「非現実」の交錯する自己の内面は、すでにおのずからシュルレアリスムの「デペイズマン」的な世界を、「リアル」なものと見ていたのではないだろうか。
 実は彼女が自分の行為に先行してマックス・エルンストのコラージュ作品が存在したことを知らなかったこともうなずけるし、単に「意匠」としてフォト・コラージュという手法を選んで創作を始めたのではないということはとっても重要なことだろう。
 そこで彼女は瀧口修造に引き合わされ、瀧口氏を介してシュルレアリスムの世界を知り、彼女の作品も飛躍的に発展する。これは、一種の「奇蹟的」発展であろう。

 彼女の作品の中に切り抜かれて貼り込まれたアメリカの女性たちの画像はエレガントで、それは西欧美術の中で描かれた女性像の延長にあるのだけれども、多くの作品でそんな女性たちの<顔>は切り取られている。その背景は無機質な街頭や戦争の廃墟が選ばれ、アイデンティティを喪失したような男性の小さな姿が挿入されていることも多い。そこには、あの戦争が終わったあとに「日本人の女性である自分」が「アメリカのファッション雑誌」を見ているという構図が読み取れ、つまりそのような「自分のあり方」こそがシュルレアリスティックだったということであり、彼女の作品に読み取れる「錯乱」が、実はリアルなものだったということが、今もなお、彼女の作品を普遍的なものにしているのではないかと思うのだった。‥‥彼女の作品については、まだまだ語りたいことはつきない。