ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

「サイスの弟子たち」ノヴァーリス:著 今泉文子:訳(ちくま文庫「ノヴァーリス作品集1」より)

 ノヴァーリスを読んだのは、高校を卒業してフラフラしている頃だった。まずは現代思潮社から刊行されていた「古典文庫」の一冊、「日記・花粉」を読み、古本屋で珍しい「ノヴァーリス詩集」という美しい本も手に入れた。この本は今でもわたしの「宝」で、和紙のような植物繊維の見える薄い紙に印刷され、手に取るだけで何か敬虔な心持ちにさせられるのだった。

     f:id:crosstalk:20190123171736j:plain:w550

     f:id:crosstalk:20190123171802j:plain:w550

 そのあと岩波文庫の「青い花」を読んだ。それから数年して、牧神社というカルトな翻訳書籍を刊行していた出版社から、「ノヴァーリス全集」が刊行され始めた。当時のわたしにはちょっと高価な書籍だったので、第一巻の「作品集」の巻だけを何とか買ったが、そこにこの「サイスの弟子たち」も収録されていたはず。このときはたしか「ザイスの学徒」というタイトルだったのでは?と思う。ただ、わたしはこの全集本はけっきょく、ほとんど読まずに処分してしまった。そういうのでは、ン十年ぶりに読むノヴァーリスである。まずしょっぱなはこの「サイスの弟子たち」。

 ‥‥ノヴァーリスは、決して若書きのロマンティックなメルヒェンを書いただけの作家ではない。たしかに29歳で没した「夭折」作家ではあるが、その思索はおどろくほどに踏み込まれたものである。
 この「サイスの弟子たち」は、彼の自然解釈からの「理想郷」を求める思索のあとであり、かつて存在した「黄金時代」への道を模索する書物だろうか。それが単に「自然回帰」に終わらないのは、彼の「身体感覚」と「自然感覚」にあるだろうと思う。例えば次の文。

 われわれに触れてくるものの総体をひとは自然と呼びます。そうすると自然は、われわれが感官と呼ぶところのわれわれの身体の部分と直接の関係をもっていることになります。われわれの身体の未知にして神秘なありようは、自然の未知にして神秘なありようを推測させます。だとすれば自然とは、われわれが自分の身体を通じて導き入れられるあの不思議な共同体ということになり、われわれは、自分の身体の仕組みや能力に照らしてこの共同体を知ることができるのです。

 ‥‥引用するとどこまでも長くなるのでこのあたりにしておくけれども、彼は単に「自分の内にこそ自然も存在するのだ」などと言っているわけではない。このあたりの、自己身体と外部の自然とのコレスポンダンスの考えは、そんなに容易いものではない。ノヴァーリスはここに「自然器官」ということばを用い、「自己の内部に自然を生殖し、産出する道具を持たぬ者は、自然を把握するには至らないだろう」と書いている。このあたりに、フーコーをも魅了させたノヴァーリスの「哲学」の片鱗が読み取れるようにも思う。
 この作品の中にはさまざまな「自然を把握したい」との「弟子たち」が登場し、いろいろな論を述べるのだが、そんな中で「髪に花を飾り、自然との調和を説く若者たち」などというのは、どう思ってみてもあの1960年代のヒッピーたちと相似形で、たしかにあの時代のヒッピーたちにはノヴァーリスを読みふける一派もあったのではなかっただろうか(ドイツに「Novalis」というプログレバンドがあったが、そのバンドの音をわたしは聴いたことがないけれども、どのくらいノヴァーリス意識が強かったのだろうかと、知りたい気もちがある)。
 とにかくはン十年ぶりのノヴァーリス、やはり「タダものではない」という読み始め、ではあった。