ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

2026年03月のおさらい

映画:
●『ワン・バトル・アフター・アナザー』(2025) トマス・ピンチョン『ヴァインランド』:原案 ポール・トーマス・アンダーソン:脚本・監督 (2回目)

Book:
●『薔薇の名前』(1980)(下巻) ウンベルト・エーコ:著 河島英昭:訳
●『肉桂色の店』(1933)(『シュルツ全小説』より) ブルーノ・シュルツ:著 工藤幸雄:訳

ホームシアター:
●『シンバッド七回目の航海』(1958) ネイサン・ジュラン:監督 レイ・ハリーハウゼン:特殊撮影
●『ブギーナイツ』(1997) ポール・トーマス・アンダーソン:製作・脚本・監督
●『マグノリア』(1999) ポール・トーマス・アンダーソン:製作・脚本・監督
●『パンチドランク・ラブ』(2002) ポール・トーマス・アンダーソン:製作・脚本・監督
●『ドラゴン・タトゥーの女』(2011) スティーグ・ラーソン:原作 デヴィッド・フィンチャー:監督 
 

2026-03-31(Tue)

 昨夜は暖かかったので、夜になってついにニェネントくんがベッドに跳び乗ってくることはなかった。ああ、今年もやはり、こういう日がやってきたかとは思った。
 でも、夜中に目覚めたとき、ニェネントくんはちゃんとベッドの上で丸くなっていた。そうだね、そうこなくっちゃ。

 今日は朝からずっと雨だった。雨のおかげでか、最高気温は20℃にも届かなかったけれども、最低気温は15℃を超えていたのだった。だから今夜もニェネントくんはとうていベッドに上がってくることもないだろうと思っていたけれども、わたしがベッドにもぐり込むと、ちゃんとニェネントくんもベッドに跳び乗ってきてくれたのだった。

 雨の中、昼前に西のコンビニへ行って酒を買い、ついでにコンビニのそばの神社のサクラの咲きぐあいを見てきた。
 ふむ。この咲き方はもう「満開」と言っていいんじゃないかと思う。そしてこの日の雨に打たれて、地面にはもう、たくさんのサクラの花びらが散っていたのだった。
 ああ、もう今年のサクラも「終わり」なのだ。

     

     

 いちおう、ブルーノ・シュルツの『肉桂色の店』を読み終わり、つづいて『砂時計サナトリウム』を読み始めたのだけれども、これまたそのしょっぱなから頭に入りにくい文章で、難儀している。
 一方、「やっぱりポール・トーマス・アンダーソンの映画は面白いよね」というのがあって、まだ観ていない何本かのポール・トーマス・アンダーソンの映画を観てみたいと思うことになり、まあ「Amazon Prime Video」で『インヒアレント・ヴァイス』を観ることはできるのだけれども、それはきのう注文したピンチョンの原作の『LAヴァイス』を先に読むかね、てなところで、まずはダニエル・デイ=ルイス主演の『ゼア・ウィルビー・ブラッド』を観たいかな、というところなのだが、Amazonでチェックするとその『ゼア・ウィルビー・ブラッド』は新品で1000円で買えるもので、つい注文してしまったのだった。
 この映画はまさに、今世界が動かされている「石油」のお話。
 しかし、今の「人間たち」というものも、こういう「大昔の『化石燃料』」に依存しないとやっていけないということが、そもそもの「現代の人類」の「大きな大きな」限界なのだ、という気がしてならない。その「エネルギー源」をどこに求めるかということで、人類は「未来への視点」を得ることに失敗し、そのまま今げんざいまで来てしまっている感じ。「レアアース」だってそうだけれども、わたしたちはこの「地球」という惑星に蓄積されていた資源に頼るしかないということで、その「未来」は限定されてしまっているのだ。
 例えば、これはバカなことを言うけれども、この地球上にほぼ無限にある「空気」や「海水」からエネルギーを得る技術をつくれなかったのかが、つまり「人類」の限界、なのだと思う。
 もちろんわたしごときの「知」の及ぶことではないのだが、残念なことだとは思うのだ。

 そんな人類の歴史で近~現代の最悪の指導者のひとりがアメリカのトランプだろうが、相変わらずイラン情勢~ホルムズ海峡情勢について、誰が聴いても「そりゃデタラメ言ってるだろう」という発言を繰り返している。今は「イランと折衝を継続している」と語っているが、そ~んなことやっちゃいないだろう。そしてイラン戦争を終わらせたいのか、継続したいのか、当人もしかとはわかっていないように思えてしまう。
 それともうひとり、日本には高市というバカがいるのだが、高市は先日のトランプとの怪談で、トランプに「ホルムズ海峡に今すぐ自衛隊を派遣しろ」と言われ(命令され)、「お安い御用」と返事して帰国。ところが官邸で周辺の参与から「そんなことしたらどうなるんだかわかってるのか」と止められ、高市は激怒して反発したという「裏話」が表面化した。
 いやあ、高市ひとりに任せていたら、この世界で日本は「アメリカ・イスラエル同盟」に加担する「アホ国家」になっていたのだ(まあ一部ではすでにそう認識されているが)。
 最近は「高市推し」の群れる「Yahoo! News」でも、高市批判の声に対しての「援護」の声も小さくなっているみたいだけれども。
 

『肉桂色の店』(1933)(『シュルツ全小説』より) ブルーノ・シュルツ:著 工藤幸雄:訳

 ブルーノ・シュルツの第一短編集で、収録作は以下の通り。
●「八月」
●「憑き物」
●「鳥」
●「マネキン人形」
●「マネキン人形論 あるいは創世記第二の書」
●「マネキン人形論(続)」
●「マネキン人形論(完) 」
●「ネムロド」
●「牧羊神」
●「カロル叔父さん」
●「肉桂色の店」
●「大鰐通り」
●「あぶら虫」
●「疾風」
●「大いなる季節の一夜」

 語り手の「私」が過去を振り返り、父を中心にその家族のことを書いた連作集のかたちを取っている。それぞれの作品は幻想的でそれこそ夢のような描写が特徴で、ブルーノ・シュルツの独特な比喩の多用などからも、散文詩的な作品になっていると思った。「短編集」とはいえ、他の作品を読んで初めて先の作品の意味合いがわかってくるようなことがらが多く、トータルに「ひとつの物語」という読解もできるのだけれども、一方で全作品を読んだあと、それぞれの作品の「独立性」もまた了解できるというところもある。

 うち、4篇に分割されている「マネキン人形論」は、父親の語る「物質論」についての、一種哲学的な世界観を示しているし、全体に多くの短編の舞台になっている家族の住む家、そして父の仕事場の「織物店」とかの、どこか黴(かび)の匂いのただよってくる空気感が、この作品らの「アトモスフェア」としてわたしの感覚に焼き付いた思いがする。作品中に何度も「醗酵」という言葉が登場することも、そのアトモスフェアを支えているだろう。
 例えば、わたしは読み始めてすぐに、最初の「八月」のなかの「巨大なひまわりが一輪、頑丈な茎にやっと支えられ、象皮病をわずらってお化けのように肥り切った重みに撓(たわ)みながら、黄色の喪服をまとい、残る命の悲しい日々を待っていた。」というところに、まさに八月の暑苦しい空気のなかの「腐臭」のようなものを嗅ぐ思いがしたし、わたし自身も毎夏かならず目にする、その枯れかけた花輪の重さに耐えかねて頭をうなだれた「ひまわり」のことを思い出すのだった。この一文のせいだけで、この『肉桂色の店』という作品集のとりこになってしまったところはある。

 やはり登場人物でいちばん印象的なのは、唐突な行動をとる「父」の存在で、作者のブルーノ・シュルツは「父親への深い愛情がこれらの作品に結晶した」というようなことを書いているが、読んだ感じではこの「父」の存在は異様に感じられる。世界中の動物商から鳥の有精卵を買い集め、家でそんな異国の鳥たちを孵化させる父、とつぜんに「マネキン論」のような哲学を語り始める父、そしてなんと、「あぶら虫」に変身してしまう父。
 「私」の家族は母も兄もいるようなのだが、この『肉桂色の店』にはほとんど登場しない。代わりにひんぱんに登場するのは、アデラという家政婦らしい女性で、この女性は父に対して「支配力」というか特別な能力を駆使しているようで、ある種、父がこの家に及ぼす「異能」を、彼女の仕事として「清掃(スィープ)」してしまうようなところがある。
 この他に父の営む「織物商」ではたらく「お針子」の女性たち、そしてまだ幼い「私」をひざに抱き上げて「ポルノ写真」をみせてくれる従兄なども登場してくるわけだ。

 でも全作品でいちばん印象に残ったのは表題作の「肉桂色の店」で、この作品で「私」はまず、父と母といっしょに夜の劇場に出かけるのだけれども、父が家に忘れ物をしたもので「私」がそれを取りに戻る。取りに戻っても開演時刻には間に合うだろうということだが、夜の町を歩くうち、通りにまだ開いている店の連なりは「私」が「肉桂色の店」と名づけたものであった。それらの店先には不可思議な「非日常」な、異国の情緒を伝えるものではあった。「私」がそんな店の角を進んで行くと、そこにあった建物は「私」が通った学校の校舎だった。学校でのデッサンの授業のことを思い出しながらその校舎を抜けると、そこには馬車がとまっていて馭者は「私」に「乗って行くかい?」と聴くのだ。ついその馬車に乗ってしまうが、いつしか馭者はいなくなり、「私」はただひとり、その馬車での旅を続けることになるのだ。
 さいしょの「父の忘れ物を取りに戻る」という目的はとっくに忘れ去られ、「私」はただ夜の町の夢幻的な風景のなかをさまようことになり、ついには「冬のいちばん明るい夜のあの光り輝く馬車の旅を私は決して忘れないだろう」という、終わりなき旅へと突入するのだ。

 そしてやはり、「大鰐通り」という作品もまた印象深い作品ではあったわけで、ここには「現代における都市論」みたいなものも読み取れて興味深かったのだけれども、今回書くのはここまで、ということにしておきたい。
 

2026-03-30(Mon)

 ブルーノ・シュルツの『肉桂色の店』をいちおう読み終えたもので、この中の「大鰐通り」をストップモーション・アニメで撮ったブラザーズ・クエイの傑作、『ストリート・オブ・クロコダイル』を久しぶりにまた観たのだった。これもまた、つげ義春の作品にも匹敵するような衝撃の表現世界だったわけだが、この日あらためて観て、これはブルーノ・シュルツの短編をそのまま映像化したのではなく、ブラザーズ・クエイの自由な解釈で撮られた作品なのだと認識できた。ただ、原作に出てくる父の「織物店」らしい空間が出てきたので、そこには原作が生かされているとわかった。おそらく、登場する顔の細長い男性が原作の「父」なのではないだろうか。
 映像の中で最後に引用されるブルーノ・シュルツの文章は、その「大鰐通り」の最終部の文章なのだった。

大鰐通りは現代のために、また大都会の腐敗のために私たちの街が開いた租界であった。どうやら、私たちの資力はせいぜい紙製の模造品や棚ざらしの去年の古新聞からの切り抜きを貼り合わせたモンタージュ写真しか賄い切れなかったようである。


 今日は月曜日なので、「ふるさと公園」へ行った。この日は午後には最高気温も20℃を超え、曇ってはいるけれども、まさに「春うらら」の日になった。今日の「ふるさと公園」には野鳥の姿もあまり見られず、けっきょく「桜詣」のお出かけ、にはなってしまった。
 この時期、サクラの花は日ごとに開花が進んで、「もうこんなに咲いたのか」と思わせられることになる。この日はまず「手賀沼ふれあいロード」沿いの桜並木が見えるところまで歩くと、もうサクラの木々が桜色に染まっているのが、はっきり見えるようになっていた。
 でも、サクラの木のそばまで行ってみると、まだまだ六~七分咲きぐらいではないか、と思わせられる。

     

     

 「ふるさと公園」の中に入るとまだサクラの盛りには早いとはいえ、公園は一年に一度の花化粧。すっかりいつもの景色とはちがう美しい姿を見せてくれていた。まだ来週来るときまで、この表情を残してくれているだろうか。

     

 この日は野鳥の姿もあまり見えず、今の主役はやはり「桜」。それでも久しぶりに、巣ごもりしているコブハクチョウの連れ合いのコブハクチョウが近くに来ていた。

     

     

 「ふるさと公園」を出るとすぐに、道路の向かいの家のところにヒヨドリが来ているのが見られた。
 そしていつも立ち寄る「お猫様の祠」には、久しぶりにノラ・ミャオがいたのだった。

     

     

 帰りに駅前のスーパーに行って店内をグルッと見てまわったら、トマトが1パック198円と、最近ではとび抜けて最安値になっていたもので、トマトが6個入ってるパックを選んで、2パック買って帰った。

 帰宅してネットのニュースを見ていると、東京の清瀬市の市長選挙で、共産党と社民党の推薦した新人候補が、自民、公明の推薦していた現職市長を破って初当選したという。
 どうやら現職市長は清瀬市内に6館あった市立図書館を半減させ、3館にしようとしていたらしく、その手続きが市民を無視したものとして反発を招いていたようだ。そうでなくっても、現在の高市自民党の無策ぶりは多くの国民の怒りを呼んでいる。衆議院選挙に自民党に投票して後悔したという有権者も多いのではないだろうか。衆議院選挙のときには「高市自民なら誰でもいい」という空気だったが、以後そういう空気も変わってきているようで、地方選では自民党が敗れるケースが頻出している。そもそも、市政レベルでは共産党がいちばん市民の声に広く深く耳を傾けているということは、ずっと継続していることだろう。
 『ワン・バトル・アフター・アナザー』ではないが、小気味のいい話で、わたしもちょっと明るい気分になれた。

 きのうその『ワン・バトル・アフター・アナザー』を観て、やはり元になったピンチョンの『ヴァインランド』を読みたくなってAmazonでチェックしたのだが、マーケットプレイスでの中古の出品がなく、定価でしか買えないのだ。こういうのは時期がうまく合えば中古で安く手に入ることもあるので、今は買わないことにした。いや、ピンチョンの本は中古で出品されてもあんまり安くならないという特徴があるわけで、送料を入れて300円ぐらいしか安くならないようだと、「新品で買った方がいいか」ともなってしまうのだ。
 それでもこの日は、『LAヴァイス』が定価より1200円ぐらい安く出品されているのを見つけたもので、こっちを注文してしまった。
 あとピンチョンで持ってない(読んでない)のは、『ヴァインランド』と『逆光』とだけになったか。
 

『ワン・バトル・アフター・アナザー』(2025) トマス・ピンチョン『ヴァインランド』:原案 ポール・トーマス・アンダーソン:脚本・監督

  

 ポール・トーマス・アンダーソンはそのキャリアのさいしょの6本で「世界三大映画祭」の全部で監督賞を受賞していて、その6作目の『ザ・マスター』を撮ったときにはまだ42歳と、天才型の人物なわけだけれども、彼の本国のアメリカではアカデミー賞とは無縁で(ノミネートは何回もされているのだけれども)、だから「アメリカ人は彼の才能が理解できないのだ」とも言いたくなる(『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』は主演男優賞と撮影賞を受賞しているが)。
 それがついに、この『ワン・バトル・アフター・アナザー』でもって、監督賞・作品賞・脚色賞と、まとめてドッサリ獲ってしまったのだった。他に助演男優賞(ショーン・ペン)と編集賞、そしてキャスティング賞(今年初めて設立された賞らしい)も受賞し、合計6個もオスカー像を手に入れたのだった。
 今回、そのアカデミー賞受賞記念の「凱旋興行」っつうのがあり、わたしも「この映画、めっちゃ面白かったからまた観に行こう!」となったのであった。

 わたしがこの映画を最初に観たのは去年の暮れのことだったけれども、それ以後、まさにアメリカという国は「この映画に描かれていることは真実なのだよ」という事実を、わたしらに知らしめてくれた。
 トランプの「反移民政策」による「アメリカ合衆国移民・関税執行局(ICE)」の、ミネアポリスでのとんでもない「市民殺害事件」は、この映画の冒頭で描かれた「移民拘留センター」がリアルなものであり、ショーン・ペンの演じるロックジョー大佐のような存在のリアリティを知らしめてくれたのだった。

 前に観たときに、映画に登場する「フレンチ75」を名乗る革命グループが現実に70年代に活動した極左グループ「Weatherman」からインスパイアを受けたものだとはわかったけれども、今回観て、ロックジョー大佐がメンバーになりたがった「クリスマス・アドヴェンチャーズ」というものをいろいろ考えてみた。
 さいしょ観たときも「トランプがメンバーになりたがりそうだな」とは思ったのだけれども、考えるといろいろと奥が深そう。これはトランプが好んで言う「ディープステート」の逆張りというか、右派の影の陰謀団的な色彩があると思う。そういうところで「フリーメイソン」的なものも感じるのだが、もっと「秘密結社的な政治的極右過激派」なのだろう。
 だいたい「クリスマスの冒険家たち」という名前からも「キリスト教」を連想させられ、そこに「救済」という意識を読み取れる。しかしどうも、そこにあるのは「キリスト教的価値観とアメリカ的愛国心との融合」があるのではないかと。
 これは一種の「陰謀論」の実態化ではあるのだけれども、一方に極左の「フレンチ75」が描かれ、その対極にこの極右の「クリスマス・アドヴェンチャーズ」というものを設定したのが面白いし、これがまさに今げんざいのトランプのアメリカというものにしっかり対応しているのだ。

 じっさい、アメリカではこの映画に対して、「アメリカ史におけるこの特定の瞬間に対する痛烈な告発」と、まさにトランプの時代を意識した批評も登場しているし、「本質的にはスリラーだが、国の崩壊と救済の可能性についての壮大なアイデアに満ちている」との評もあるのだ。
 もちろんこの批評は、映画ラストで遠方の「抗議活動」に参加するために出発するウィラに希望を託してのものだろうし、わたしなどがこの映画から感じる「爽快感」もまた、「悪役」としてのロックジョー大佐の「消滅」と、「父と娘との生還、そして母の意思を娘が継ぐ」ということへの感情移入があるだろう。さらにアメリカでの批評には「ファシズムの時代に作られた反ファシズム映画」というのもあり、「この映画は右派の一部を苛立たせ、左派の一部を奮い立たせた」というのもあったようだ。
 日本でも「キネ旬ベストテン」の外国映画で1位になったようだが、観客のなかには「これはサヨク映画だ!」と忌避する連中はいなかったのだろうか。

 今回もういちど観ていちばん感銘を受けたのは、ジョニー・グリーンウッドの音楽だったかな。まあけっこう大音量で観る(聴く)ことができたし。
 なかでも、ディカプリオの演じるボブが組織からの「ロックジョー大佐の一団がそちらを急襲しようとしている」という知らせを受け、自室のトンネルから脱出、逃亡すると同時にウィラを探しに向かうというシーンで、その始まりからピアノの短音が基調となって鳴りつづけ、これがボブが屋根から落ちで捕獲されるまでの、おそらくは30分ぐらい(もっと長かったかもしれない)、そのピアノの音がずっと継続して緊張感をめっちゃ高めてくれる。これは心拍数が上昇したというか、こういう音楽(音)の使い方をする映画というのは初めて体験した。また観たい映画だ。
 

2026-03-29(Sun)

 つげ義春さんが亡くなられた。もう亡くなられて三週間ほど経つようだが、遅れて発表されたもの。その訃報を目にして、「あっ」と声を出してしまった。
 わたしも、つげさんの作品は夢中になって読んだものだったが、やはり『ねじ式』の衝撃はとても大きかった。その頃はわたしもシュルレアリスム関係の本など読んでいて、「不可思議なもの」「怪異なもの」への指向は強くなっていたのだけれども、『ねじ式』はそういう「海外文学」ではない、どこか土着的な、日本的なものを感じたものだった。そして『ねじ式』以外のその時期のつげさんの作品をいろいろ読み、自分の知らない世界に目を開かせられたのだった。その頃のわたしはガキンチョらしくも表層的なことに目を奪われるだけだったのだけれども、例えば『沼』の、ラストページの主人公が猟銃を撃つシーンの持つ、不思議なカタルシスには心奪われ、その表現のなかに、わたしの知らない世界への門戸が開かれた思いがしたものだった。
 今のわたしがつげさんの作品で思い出すのは、『ほんやら洞のべんさん』のなかの、子どもたちが夜の雪景を歩く「鳥追い祭」のシーンで、幼い顔の子どもが「鳥!この鳥!」と叫ぶシーンだったりする。
 つげさんの作品も十年ほど前にようやく海外に翻訳され、それでフランスの「アングレーヌ国際漫画祭」で「特別栄誉賞」を受賞されたのだった。この報道はよく憶えている。
 今、つげさんのことをもっとよく知ろうかと「wikipedia」を見てみたら、想像もしなかった「大長篇」の記述なのでおどろいた(まだ全部は読み終えていない)。
 つげさんのおかげで、わたしはこの世界の豊かさ、奥深さの一端を、わたしなりに知ることができたのだと思う。ありがとうございました。そして、ゆっくりお休みください。

 この日のわたしは、近くの映画館で「凱旋興行」として上映されている、ポール・トーマス・アンダーソン監督の『ワン・バトル・アフター・アナザー』を観に行ったのだった。前にとなり駅の映画館で公開されたときに一度観ているので、これが二回目の鑑賞。
 映画の上映は午後2時からだったので、12時過ぎにウチを出た。1時間もあれば行けるところなのだけれども、ちょっと早めに。
 駅に行く途中にサクラの咲く神社があるので、この日も「どのぐらい咲いたかな?」と観測。まあおととい来たばかりなので、そんなに大きな変りもない感じで、「まだまだ」というところ。

     

 駅前のオープンを待つばかりのショッピングセンター、この日に前を通ると窓に「4月28日オープン!」と貼り出されていた。これからちょうど1ヶ月先か。新しく設置されていた信号機もすでに稼働していて、もう外観はしっかり出来上がってる感じだけれども。

 目的のシネコンは、となり駅で乗り換えて2つ目の駅のそば。その駅に到着して、まだ1時をちょっと過ぎたところだった。先にチケットを買って座席を決め、時間がたっぷりあるので1階のスーパーマーケットに行き、カフェオレのペットボトルを買った。おっと、シネコンは「他店で買った食べ物や飲み物を持ち込まないでください」なので、ヤバいだろうか。
 それで2階には大きな書店もあるので、上映時間が迫るまではその書店のなかでいろんな本を見て時間をつぶした。去年の暮れに刊行された、『薔薇の名前』の「完全版」の中身など開いて見てみた。ウンベルト・エーコの描いた登場人物のスケッチ(カリカチュア)、そして「図書館の迷路」のアイディア・スケッチとかが載っている。やはり、「図書館迷路」を組み立てるには試行錯誤を重ねていたみたいだ。
 いよいよ、映画が始まる。かなり長い映画だから、終映は4時55分、ほぼ3時間の上映である。
 いやあ、さすがシネコンでの上映、音量がたっぷりデカくって、それだけでもわたしは「大満足」だった。特に、ジョニー・グリーンウッドの音楽をたっぷり楽しんだ。そしてとにかく、展開はわかっているといっても、ポール・トーマス・アンダーソンの演出と、その編集の妙を堪能した(アカデミー賞で、作品賞・監督賞・脚色賞、そして編集賞、助演男優賞、キャスティング賞の6つを受賞したのだ)。これなら毎日観てもその都度楽しめるんじゃないか、というぐらいに面白かった。

       

 映画が終わって即帰宅。ニェネントくんが遅れてしまった夕食を待ちかねていることだろう。
 帰りにまたサクラ咲く神社の前を通ったが、こうやって神社の外から見ると、もう八分咲きぐらいには見える。見る方向で咲き方が異なって見えたのか、それとも、わたしが映画を観ていたあいだに開花が進んだのだろうかね。

     

 帰宅してドアを開けると、待ちかねていたニェネントくんがお出迎えしてくれた。「いやあ、遅くなってゴメンゴメン」と謝って、夕食を出してあげるのだった。
 

『ドラゴン・タトゥーの女』(2011) スティーグ・ラーソン:原作 デヴィッド・フィンチャー:監督

 ※ぜ~んぶネタバレしちゃってますので、御用心!

 スウェーデンの雑誌「ミレニアム」の記者ミカエル(ダニエル・クレイグ)はヴェンネルストレムという大物実業家の武器密売をスクープするのだが、トラップにハマり名誉棄損で告訴されて敗北したところだった。そこにヘンリック・ヴァンゲルという別の大物実業家(クリストファー・プラマー)から連絡があり、40年前に失踪、おそらくは殺害された自分の孫娘ハリエットの謎を解明してほしいという依頼。仕事をやりおおせば、ミカエルが抱える訴訟を逆転させる証拠を提供しようというのだ。
 仕事を受諾して、ヴァンゲル家の近くに住み込んで調査を始めたミカエルだったが、ヴァンゲル家の過去には殺害された多くの女性たち、ナチス党員だった男たちなどが浮かび上がってくる。ここでミカエルはエージェンシーの勧めで、リスベット・サランデル(ルーニー・マーラ)という、まだ23歳の天才ハッカー女性の助力を得ることになる。
 リスベットは父親からDVを長年受けていて、彼を焼き殺そうとしたことで保護観察処分下にあり、彼女が信頼していた後見人が病気で倒れたあとの新しい後見人にレイプされたあと、逆に暴力的にその男に復讐したばかりでもあった。パンキッシュなヘアとピアス、そのメイクと「反社会的態度」の際立つ女性だが、そのハッカーとしての技量と記憶力は抜群のモノがあり、ミカエルとは「いいパートナー」となり、共に調査を進めるのだ。

 映画はほぼ全編、ミカエルのパートとリスベットのパートとが絡まないまま並行して描かれる。この「別の物語」が同時進行して行く演出、そして編集が素晴らしく、ついに二人の物語が交叉して出会うとき、二人の目的こそ同じになるけれども、ちょっとしたディスカッションで捜索の方向を決めたあとは、やはりそれぞれの行動は別々に描かれて行く。
 これが終盤、二人は互いに別のアプローチで捜索するなかで、ほとんど同時に「真相」にたどり着くところが、それこそ「フィンチャーの映画」だよな、という感じでカッコいいのである。

 つまりヴァンゲル家の「惨劇」は、二人のヴァンゲル家の男によって引き継がれ、継続された「ミソジニー」じみた連続殺人事件だったわけで、このことはリスベットのこうむった「性的虐待」と共通するものなのだ。
 けっきょく、その連続殺人を行っていた男が、実はいちばん熱心にミカエルの捜査を支持していたわけだが、彼は「自分はハリエットを殺してはいないし、ハリエット行方不明の謎が解けることは歓迎だ」とでも思っていたのだろうか? いやしかし、ミカエルの部屋に出入りしていた「キャット」という名のネコを惨殺したのは(かわいそう!)その男以外には考えられない。ミカエルを支持したフリをしたのは、家長のヘンリックへのポーズだったのだろうか。

 ここで犯人は「真相を知った」ミカエルを捕え、今まで何人もの女性を殺してきた地下室でミカエルを拷問して殺そうとするわけだが、ここでなぜか犯人がオープンリールでエンヤの「オリノコ・フロウ」をかけるものだから、「え? それって?」って思うのだが、これはデヴィッド・フィンチャーはこのシーンに関して「犯人は殺人は好きではないし、人の叫び声を聞くときには好きな音楽を聞きたいと考えるような男だ」と語ったとき、ダニエル・クレイグが「では『オリノコ・フロウ』をかけようよ」って決めたらしい。しかし、さいしょのテイクで「オリノコ・フロウ」が流れたとき、スタッフもキャストも爆笑してしまい、撮影にならなかったらしい。
 でも、ダニエル・クレイグは「007映画」のどれかに、この映画とそっくりな拷問を受けるヤツがあったような。

 このあと、「真相を知った」リスベットが犯人の家の地下室に来て、犯人をゴルフパッドで殴ってミカエルを助けるのだ(逃げる犯人を追うとき、リスベットがミカエルに「May I kill him?」って聞くのに痺れる)。
 行方不明だったハリエットは実は生きていて、他の親族の助けを借りてイギリスへ逃れ、その親族の名をかたっていたわけだった。
 事件の解決を知ったハリエットは40年ぶりにスウェーデンに帰国し、ヘンリックと再会するのだった。
 しかし、ヘンリックがミカエルにくれたヴェンネルストレムの裏情報は、期待したほどのものではなかったのだった。

 さてここからは、レスビットが「ではわたしが何とかしてあげよう!」とばかりに、まるで「レディー・ガガ」かよ!ってばかりの変装をし、007張りの「女スパイ」みたいな活躍をみせてくれる。もう、観ていればレスビットに惚れるしかないのである。
 ラストは「わたしだって素顔は23歳の若い女の子よ!」とばかりの素振りを見せるのだけれども、その結末はちょっと切ないモノだった。
 全編を観て思うのは、この作品はミカエルよりもはるかにレスビットの内面に寄り添った作品になっている、ということ。それは扱われたメインの「性犯罪」が、レスビット自身がそれまでにこうむって来た性犯罪の被害者だった、ということでもある。さらに作品全体を通じて展開をリードするのはレスビットの方だろうし(ミカエルとのセックスでもリードする)、事件の重要な手がかりを先につかむのもレスビットだった(このことは、ミカエルの見つけた「メモ書き」が「聖書」のことだと気づいたのが、ミカエルのところに遊びに来ていたミカエルの娘だった、ということにもつながっていて、一種の「女性賛美」なのだろう)。そういう意味でもラストの、「普通の恋愛感情」に浸ろうとしたようなレスビットの「挫折」は、よけいに切ない。

 こうやって久しぶりにこの映画を観たけれども、わたしがいちばん好きなデヴィッド・フィンチャーの作品は、この『ドラゴン・タトゥーの女』ではないだろうか、とは思う(フィンチャーの作品はどれもみ~んな好きだけれども)。そしてこの映画、ルーニー・マーラという女優さんの存在に注目させられた映画でもあった。この数年後にパトリシア・ハイスミスの『キャロル』が映画化され、ルーニー・マーラがキャロルに惹かれるヒロインを演じると知ったとき、「あのルーニー・マーラが!」と思ったものだったし、じっさいに『キャロル』を観たとき、彼女の、この『ドラゴン・タトゥーの女』との大きな差異におどろいたものだった。