ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

2024-12-03(Tue)

 この日は午前中に北のスーパーへ買い物に行くのだが、その前に西の方角のコンビニに寄り道して、それからスーパーへと行った。コンビニからの道は車の交通量の多い国道沿いの道を選ばず、普段ほとんど歩かない住宅地の中を歩いた。
 今日も空には青空が拡がり、そこまで寒くもなくって歩いていても心地いいのだけれども、歩いた道もけっこう快適だった。空き地が多くって、道の両側に家屋が迫っているということがあまりなく、ちょっと目線を上げると青空がいっぱいだし、道の両側の空き地には雑草が伸びているわけだ。車もまるで通らないし、いつも歩くこのあたりの道のなかでは「快適さ」ではいちばんではないか、などと思った。まあこれから普段この道を歩くにはわざわざ遠回りをしなければならないから、あんまり歩く機会もないだろうけれども。
 歩いていたら頭の上の電線にヒヨドリがとまっていて、しばらくじっとしていたものでゆっくり写真が撮れた。先日はヒヨドリの撮影に失敗したばかりだったけれども、この日はそのかわいい瞳もクッキリと撮影することができた。

     

 スーパー到着。この日はとなりのドラッグストアで「一品だけ15パーセント引きしますよ」という割引券を持っていたので、ニェネントくん用のカニカマを買う。まだこの割引券はあと2回使える。
 それでスーパーの方ではニェネントくんのネコ砂を買い、今日は「ニェネントくん用の買い物」中心だ。
 スーパーの店内をみていると、この日は白米5キロで2600円ぐらいのが売られていて、「今だったらコレは相当に安値だよな」と思う。はたして、これからこのくらいの価格の米がいつも売られるようになるのか、それともコレは今回だけの安値で、あとになって「しまった、あのとき買っておけばよかった!」ということになるのか、ちょっとした「賭け」の気分。この日はニェネントくんのネコ砂があるので、お米までは買えないのだったが。
 あと、最近は「たまご」もまた値上がりしているという報道をみていたので、「どうだろう」とたまご売り場を見てみる。この日は火曜日でたまごの「特売日」のはずで、今までの特売日は10個1パックで139円(税抜き)だったわけだ。同じ価格だったら買っておこうと思っていたのだけれども、コレが159円(税抜き)になっていて、「あららら」となった。
 まだまだ他の店に比べたら159円でも安いのだろう。そして、きっとこれからは159円どころか、もっと高くなる可能性もあるだろう。しょうがないからその値段のたまごを買ってもよかったのだろうが、「一気に20円値上げ」というのがショックで、この日は買わないのだった(これもあとで後悔するかもしれない)。

 12月になって、月初めはいろいろと値上げされる時期だからと、先月末に「どんなものが値上げされるのだろうか」と調べたところでは、12月の主な値上げは「スナック菓子」とかで、さほど値上げ品が多いわけではなく、それよりも次の来年1月に値上げされるものがい~っぱいあるのだと知り、特に12月の値上げ品のことはあまり気にしないことにした。しかしそういうメーカー製造品ではない「生鮮食料品」での値上げは、相変わらずいろいろあるのだ。トマトやキャベツの価格はいつまでも高いままだし、今年は白菜の価格も去年より高いみたいだ(去年までは今ごろは「1玉100円」とかいう白菜もあったと思うけれども、今は駅前の安いスーパーで四分の一カットでも100円、という感じ)。
 先日の報道で、最近は「ふりかけ」の売り上げが伸びているのだといっていた。「その気もちはわかる」というか、わたしもしばらく前に「これからは<ふりかけ>よ!」と各種ふりかけを買い集めたこともあったのだけれども、やっぱりふりかけというのは飽いてしまって、いつしかふりかけは食べ残してしまうのではあった(今でも冷蔵庫のどこかにふりかけがしまわれていると思う。わたしとしてはこういうとき、「海苔の佃煮」とかがかなり有効ではあったと思う)。

 午後からネットのニュース記事を閲覧していたけれども、先日わたしがテレビで見て「斎藤兵庫県知事」問題に関して「よく取材して、よく放映したものだ」と思っていた「報道特集」を思いっきり批判する記事が出ていた。
 それでその執筆者の主張の原点は、「私たちの民主主義は言論の自由の上に成り立っている。その言論の自由は最大限に尊重されるべき」というものだった。この主張は今でもずっと「ネトウヨ」諸氏の言い張るところのものではあり、かんたんに乱暴にいってしまえば「誹謗中傷」発言も「民主主義」なのだという主張である。実はこのような主張をされる輩は「民主主義」など否定したいと思われていて、そのような「民主主義否定」の発言も民主主義の原則のもとでは尊重されるべきなのだ、という「歪んだ論理」を駆使されているわけだ。
 そういう輩には「なぜ人は他者を殺してはいけないのか?」「なぜヒトラーのような人物が再び登場してはいけないのか?」という根本のところから、その思考の原理を問い直してもらわなくってはならないだろう。
 

『精神0』(2020) 想田和弘:製作・撮影・編集・監督

 2008年の『精神』で撮られた岡山市の精神科クリニック、「こらーる岡山」の院長先生の山本昌知氏が、82歳にして引退されることになった。想田監督のカメラはそんな山本昌知氏と、「こらーる岡山」の閉院にとまどう患者さんらとを捉えて進行するけれども、「こらーる岡山」にやって来た山本氏の夫人の芳子さんにカメラを向けることから、自然と昌知さんと芳子さんとの「日常」へと視線を向けるようになる。

 タイトルの『精神0』の「0(ゼロ)」というのは、作品の冒頭で昌知先生に問診を受ける患者さんが「やりたいことがいろいろあってどうしたらいいかわからなくなる」と話すのに対して、山本先生が「そういうときは時にみんな<ゼロ>にする、という日を決めるんですよ」と答えることからきているのだろうか、と思った。あと、自著にサインを求められた昌知先生はいつも「共生」という言葉をいっしょに書いているようで、その「共生」というのも、この作品のひとつのテーマだろう、とは思った。
 患者さんたちはみんな昌知先生、「こらーる岡山」を頼りにしていて、症状の診察というよりも、「こらーる岡山」がなくなったあとにどうしたらいいのか、という相談が多い。もう20年とか30年とか昌知先生に診てもらっていて、「おかげで今までやって来れた」という人たち。

 ここまでは「導入部」というか、前作『精神』の延長ともいえるのだけれども、カメラが「こらーる岡山」を出て、昌知さんと芳子さんとのずっと「アンチーム」な生活を捉えるようになる。こんなに、ひとさまの「アンチーム」な世界を見られるというのは、ちょっと自分の今までの記憶にはないことだ。
 芳子さんはいくぶん認知症の症状が出ているようだし、そんな中でちょびっと、昌知さんは今まで芳子さんに頼りっきりだったのかな?みたいなところも見られたりする。
 作品の中では「存在しないはず」の想田監督も一家の応接間で「お寿司」のごちそうにもなり、芳子さんが想田監督に昔の写真を見せたりもする。『精神』のときに想田監督の撮った、10年前の映像もモノクロで挿入されたりする。
 「月日の流れ」と、いやおうもなく訪れる「老い」という問題も、観ているわたしも突きつけられる気がする。そんな中で、想田監督が「本作は期せずして『純愛』についての映画になったのではないかと思っている」と語っているように、昌知さん、芳子さんとの「写された関係性」のなかに、「かけがいもないもの」が記録されていると思った。それこそまさに、「共生」なのかもしれない。

 世界は、「かけがいのないもの」に満ちている。ふふっ、そしてわたしは、ニェネントくんと「共生」なのだ。
 

2024-12-02(Mon)

 ニェネントくんが、自分で汚してしまったホットカーペットの上に乗らなくなってしまったもので、ホットカーペットの上にタオルを敷いてあげた。それで見事、またホットカーペットの上に乗ってくれるようになった。

     

 でも、たしかに電源を入れたホットカーペットの上は暖かいのだけれども、どうもニェネントくんはそのあたり「どうでもいい」というか、電源を入れてなくっても上でまどろんでいるし、電源を入れたからといって、ずっとホットカーペットの上に居座るわけでもないみたいだ。ニェネントくんとしては、このぐらいの暖かさは「どうでもいい」のかもしれない。安物のホットカーペットだから温度調節はできないし、仮に温度調節できたとしても、あんまり温度を上げ過ぎるのもよろしくないだろう。そういうのはニェネントくんに「どう?このくらいでちょうどいい?」とか聞かないといけない。

 わたしはまた、のどの具合がよろしくなくなってきた。寝ているときに咳がとまらずに苦しい思いをしたり、また朝起きたときに痰がたまっているようになった。
 「良くなった」と思っているとまた悪くなりの繰り返しなのだが、また先日のクリニックに行けば「放っておいていい」と言うのだろうか。そんなんで致命的な「誤診」だったりしたらどうするんだ、とは思うが。
 いつまでも良くならなければ、しょうがないから市民病院に紹介状なしで行こうか。「紹介状なし」だと何時間も待たされてしまうのだが、もう「読書タイム」と割り切って、読書用の本を持って行こうか。

 わたしは今「ダイエット」というか米食のときの食事量を減らしていて、いちどに2合炊いてそのお米を4食分にしていることは前に書いたけれども、今回は一回のお米の量を0.5合のつもりをもっと少なく進行してしまい、4食目のお米の量が残り過ぎて多くなり、ちょっと「満腹」。食べ過ぎてしまったようだ。それまでのお米の量が少なすぎるとか思いはしなかったわけで、それならば「これからは2合炊いて5食分」にしようか、などとは考えるのだった。次回から試してみよう。

 昨日のニュースで秋田市のスーパーマーケットに籠っていたクマは、この朝ついにわなにかかり、そのまま電気で殺処分されたらしい。ヤフーニュースでは、「どうせ<かわいそう><殺すな>という連中が出てくるだろう」というコメントがい~っぱい書き込まれていて、皆がどれほどそういう意見を待ちわびているかということが滑稽なのだけれども、昼のニュースではじっさいにそういう意見があったみたいで、皆が安心しているのだった。

 この日おどろいたのは、アメリカのバイデン大統領が、「銃の購入その他」の罪状で有罪評決を受けていた自分の息子に「恩赦」を与えたっつう報道。「それぢゃあ某トランプとおんなじじやないかあ」とは思うのだが、そうしたらそのトランプ氏が「司法の乱用」と批判したという。まさに「おまいう」で、笑ってしまうのはこのことだけれども、しかし「バイデン~民主党」へのイメージダウンは「民主党が選挙で負けた」ことの大きな後押し、助長になるだろう。
 「ハリス氏の敗北」でアメリカ民主党のイメージダウンも相当なモノだろうけれども、もう今の民主党にはそういう堕ちたイメージを回復しようという気概もないのか、とも思ってしまう。けっこう深刻。
 ちょくせつ関係はないけれども、日本でも「民主党」=「極左」などという言説がヤフコメや「X」なんかで流通していて笑っちゃうのだけれども、今、ちょっとでもリベラルだったりするとそれだけで「極左」とかのレッテルを貼りたい連中がいる。
 まあ今は「リベラル」という言葉自体も誹謗のために使われるわけだけれども、そういう言葉の定義は今はどうなっちゃってるのか。テレビの報道番組なんかでも、自民党の政策に批判的なことをやってると「反日」とか批判されるのだ。そんなこと言ってると、「習近平」や「中国共産党」への批判を許さずに国民を監視している中国みたいな国になってしまうではないかと思うのだが、実はコレは「同族嫌悪」みたいなもので、そういうことを言うネトウヨ諸氏の理想世界は、実は「中華人民共和国」みたいな国なのだろうと思ってしまう。

 この日は午後から、想田和弘監督の「観察映画」、『精神0』を観た。「Amazon Prime Video」で無料で観ることができる相田監督の作品は、これでとりあえずおしまい。
 キーワードは「共生」か。インスパイアされるところの多い作品だった。
 次はしばらくは、フレデリック・ワイズマン監督の作品を観る予定。
 

2024-12-01(Sun)

 早朝、ニェネントくんがベッドに跳び乗ってきた気配で目覚めた。わたしの鼻に何か冷たいものが触れた感触があった。目を開けてみるとニェネントくんはわたしの顔のすぐ横にきていて、その顔がわたしにどアップで迫っていた。どうやらニェネントくんが自分の鼻先でわたしの鼻にタッチしたようだった。
 わたしはいつもニェネントくんを抱き上げたりすると、わたしの鼻をニェネントくんの鼻に押し付けていたのだけれども、ニェネントくんはその「あいさつ」をちゃんと覚えていて、今朝そのお返しをしてくれたのだろうか。いやいや、「そろそろ起きて朝ごはんを出してちょうだいよ」との催促だったのだろうか。

        

 起き出してニェネントくんの朝食を出してあげてしばらくして、ニェネントくんはホットカーペットの上でまどろんでいたのだけれども、そこで食べた朝食を吐いてしまい、ホットカーペットを汚してしまった。ネコが食べたものを吐いてしまうことはよくあることなのだけれども、さすがに自分が吐いて汚してしまったホットカーペットは、いくら拭き取っていても「いやだ」と思うのか、そのあとはホットカーペットの上にあがろうとはしないのだった。
 しばらく前までは、和室のキャットタワーの下にセットされているボックスのなかでまどろむことの多かったニェネントくんだけれども、こっちもしばらく前に中で嘔吐してしまい、わたし的にはきれいに掃除したのだけれども、それ以来そのボックスには入らなくなってしまっているのだった。何とかしたいのだけれどもね。

 今日は日曜日で、今日から12月。もう2024年もこの12月一ヶ月になった。まあまだ今年を振り返るには早いけれども、今のところ、今年はそこまでに健康上でヤバいことも起こらない年だった(のどの問題はあるけれども)。
 この日も外は好天のようで、昼間はそこまで寒い日にはならなかった。けっきょく、この日もウチから一歩も外に出なくって変化のない一日だったが、夜になって、観たい映画が昨日から公開されていることを思い出し、「観に行けばよかったな」などと思うのだった。平日に行くのはちょっとアレなので、次の週末に行くことを考えようと思う。

 このごろ、テレビを見て過ごしてばかりのような状態だけれども、日曜日の昼は見たいと思う番組もなく、ベッドに寝転がって本を読んで過ごす。読み始めているトマス・ハーディの『月下の惨劇』のさいしょの短編を読んだが、はははは、な~んだコレは。期待していたような「本格的な小説」ではなく、「ちょっとした小咄(こばなし)」っつう感じの作品だった。ラストの閉め方は「純文学」っぽかったけれども。

 夜になっての日曜日のお楽しみは『ダーウィンが来た!』で、この日はブータンに棲息する絶滅が心配されるシロハラサギという鳥の、人手によるヒナの飼育計画。
 シロハラサギはサギの仲間では最も大きな種のようで、東ヒマラヤ地域に棲息しているのだけれども、その棲息環境の悪化などで今は全部で60羽ぐらいしかいないらしいのだ。「世界で最も絶滅に近い鳥」といわれている。ブータンでは20年にわたり保護活動をつづけていて、卵やヒナのうちに回収して人力で繁殖させようとしているのだ。その活動に今年、ヤンバルクイナとかの飼育経験がある日本のスタッフが協力することになる。日本スタッフは人の手で枝を編んで巣をつくるやり方を教えたり、エサを食べるように工夫したりする。
 ヒナが突然死してしまったり、その足がうまく成長しなかったりしたのだが、番組の終わりには2羽のヒナのすっかり成長した姿が見られた。「うまく成長するように」と祈るような気もちで見ていたけれども、大きくなった姿にはホッとさせられたのだった。

 昨日は『地球ドラマチック』で、アフリカゾウの保護活動をつづけるイアン・ダグラス=ハミルトンという博士を追った「ゾウと共に生きる」というドキュメンタリーを見たのだった。
 アフリカゾウも環境の悪化や密猟のためにその数を急激に減少させた時期があったのだけれども、もともとはゾウの研究者だったイアン氏はゾウの保護活動家に転身し、自ら銃を手にして密猟家と戦いもしたのだ。あらためてゾウの賢さも見ることができ、今日の「シロハラサギ」の番組と合わせてあらためて「自然保護」に思いを馳せたのだった。

 そうしたら秋田では市街地のスーパーの中にクマ(ツキノワグマ)が入り込み、従業員に傷を負わせたあと、今もなおそのスーパーの中に籠城(?)しているのだという。夜のニュースでは、スーパー内の売り場の肉類を食い散らかしていたという。
 あらあら、クマにとってはまさに「食い放題」。「ここは天国のようなスポットだ」と思っているのではないか。これはもう「駆除」するしかないだろうから、こんどは本当に天国(?)へ行けるわけだろう。
 先日は東京を横断して横須賀の方まで行ったニホンザルもいたし、野生の動物が今までの自分の生活領域を出てしまい、人間の生活領域に侵入してくるようになった。動物も好きで人里へあらわれるのではなく、いろんな理由で本来の自分たちの生活領域が住みにくくなったり、食べ物が少なくなったりのせいではあるだろう。ある意味、動物たちも「追いやられてしまった」という側面もあることだろう。
 

2024年11月のおさらい

 11月は家では想田和弘監督の「観察映画」ばかりを観て、映画館ではフレデリック・ワイズマンの映画と、合わせて「ドキュメンタリー映画」ばかりを観たのだった。想田監督の作品はあと1本『精神0』を観れば「Amazon Prime Video」で観れる作品はおしまい。しかしフレデリック・ワイズマン監督の作品は、いつの間にか「Amazon Prime Video」で4本ほど、無料で観られる作品があるのだった(むかし観た作品もあるけれど、もうな~んにも記憶していないのだ)。12月はそういうのを観ていきたいと思う。

映画:
●『チチカット・フォーリーズ』(1967) ジョン・マーシャル:撮影 フレデリック・ワイズマン:製作・編集・監督
●『インディアナ州モンロヴィア』(2018) フレデリック・ワイズマン:編集・監督

Book:
●『呪いの館』ナサニエル・ホーソーン:著 鈴木武雄:訳
●『オードリー・タン 自由への手紙』 オードリー・タン、クーリエ・ジャポン編集チーム

ホームシアター
●『ティム・バートンのコープスブライド』(2005) ティム・バートン、マイク・ジョンソン:監督
●『選挙』(2007) 想田和弘:製作・撮影・編集・監督
●『精神』(2008) 想田和弘:製作・撮影・編集・監督
●『Peace』(2010) 想田和弘:製作・撮影・編集・監督
●『演劇1』(2012) 想田和弘:製作・撮影・編集・監督
●『演劇2』(2012) 想田和弘:製作・撮影・編集・監督
●『選挙2』(2013) 想田和弘:製作・撮影・編集・監督
 

『選挙2』(2013) 想田和弘:製作・撮影・編集・監督

 前作『選挙』(2007)では川崎市議選で自民党の「落下傘候補」として立候補して当選した山内和彦氏。その後2007年には任期満了で議員を退任し、そのときの次期選挙には立候補しなかったのだけれども、2011年、「東日本大震災~東電原発事故」直後の「統一地方選挙」の際、自粛ムードのもとで他の候補者たちが原発問題を語らないことに憤りを覚え、「無所属」での立候補を決意するのだった。
 前回の「自民党公認」としての選挙のやり方を「全否定」することとなった山内氏は、「選挙事務所なし・選挙カーなし」で、運動員といえるのは山内氏の夫人ただひとりという、ただ「脱原発」を訴える「選挙運動」を始めるのだ。

 映画は車で選挙区を巡回し、剥がれかけた自分の選挙ポスターを補修して行く姿から始まる。映画を撮る想田氏は山内氏の車に乗り込んでの「密着取材」である。
 何でも選挙管理委員会からはポスターが剥がれかかったりしていると「補修してください」との連絡があるらしい。車を乗り回しても、まったく「選挙運動」らしいことは行わない山内氏。普段から立候補のタスキも肩にかけてもいない。そこには前回の選挙のやり方への反省があり、「名前を連呼して名前を覚えてもらう」なんて無意味だし、道行く人にムリヤリ握手してもそれで自分に「脈のある人」と「脈のない人」の区別ぐらいはつくけれども、やはり無意味という考え。選挙チラシもつくらず、政策はポスターの中に刷り込んである(選挙演説は選挙運動最終日にやる予定)。選挙経費はポスター印刷代などの8万円ぐらいしかかかっていないという。「エコ選挙」。

 今回もいつもの想田監督作品のように、街角を行き交うネコの姿が収められていたのだけれども、いつもとちょっと違うのは、想田監督自身の声がよく聞かれるし、車を洗車する場面でいっしゅんだけ、車のなかでカメラを構える想田監督の姿が見られるシーンがあった。車のなかではよく想田監督と山内氏とが対話しているし、ちょっと興味深いシーンで、街頭で選挙運動をしている他の候補者を撮影していたとき、その候補者から「撮影しないでくれ」とクレームが入り、「選挙運動は公的なものだから撮影して問題はないはず」と抗議し、けっこう想田監督も「熱く」なってしまう場面があったりした。それでも想田監督は撮影をつづけるのだが、撮影を打ち切ったあとの想田監督のカメラは(興奮からか)揺れていたのだった。

 これは他の候補者にカメラを向けて聞いていたことだけれども、街頭で道行く人にあいさつはしても、そこで自分の政策を語ったり選挙チラシを配ることは「公職選挙法」に抵触するという(いやいや、選挙チラシはOKでしょう?って思うけど)。なかなかそのあたり、候補者のなかでも認識が異なるみたいだ(現在に至る問題?)。

 有権者へ出す選挙ハガキを閉局ギリギリ時間に郵便局へ夫人とお子さんといっしょに持ち込み、まだ書き終えていない分を郵便局のなかで書く。そのあいだ、飽いたお子さんは郵便局内の自動販売機あたりとかで走り回って遊ぶ。その姿を捉えるカメラ。ついには転んで泣き出してしまう。
 親切な郵便局員さんのおかげで無事に出し終えるが、「子供が映ってるシーンはいいよね」ということを越えて、けっこう印象的なシークエンスだった。

 ついに投票日前日、選挙運動最終日。山内候補は選挙運動期間中ただ一度の「街頭演説」を駅前で行う。なんと白い「放射能防護服」と「防護マスク」を身につけての演説。とちゅうで他の候補の演説とバッティングするからと駅の反対側に移動して演説するが、うむ、だ~れも立ち止まって聴こうとはしないようだ。
 カメラがそのまま山内氏から後退して行き、山内氏の演説も聴き取れなくなってきて画面は暗転、開票結果テキストが映し出される。山内氏は下から2番目、ブービー賞の落選だった。

 映画のなかでの山内氏からはけっこう当選するつもりいっぱいの発言も聞かれたけれども、この結果をどう捉えただろうか。まあ「落選しても8万円失うだけ」とは言っていたが。

 前作『選挙』では自民党公認の候補として、何から何まで自民党の選挙事務所の人の言う通りに行動していた山内氏だったけれども、この『選挙2』では「無所属候補」としてすべて自分の意志で、まさにインディペンデントに行動している。彼のこの選挙へのモティヴェーションは、震災後の日本の進路への「怒り」だ。

 彼は先に「自民党公認」で選挙を体験したからこそ、この選挙に「自分」をぶっつけてみようと考えたのだろうが、その行動が「無意味」ではなかったことは、この『選挙2』が証明しているではないか。
 

2024-11-30(Sat)

 土曜日なので、朝はFМの『ウィークエンドサンシャイン』、そして『ゴンチチの世界の快適音楽セレクション』を聴く。この朝の「世界の快適音楽セレクション」は「真夜中の音楽」特集で、わたしには懐かしい曲がいろいろと聴くことができた。「真夜中」、つまり「Midnight」がタイトルに付く曲はいっぱいあるし、けっこう名曲が多いと思う。
 わたしがガキンチョの頃に聴いた千賀かほるの「真夜中のギター」なんかは、ほんっとに懐かしく聴いたし、グラディス・ナイト&ピップスの「夜汽車よ!ジョージアへ」は実はシングル盤を持っていた。
 この「夜汽車よ!ジョージアへ(Midnight Train to Geogeia)」は「都会でスターになるという夢が破れて夜汽車でジョージアに帰るという男に、『あたしもあんたについて行くわ』と女性が歌う」という曲で、な~んかこのウェットさは日本の演歌みたいだなあ、とは当時も思っていた。それでコーラスの絡みがちょっと面白い曲で、まあ「コール&レスポンス」と言えるんだろうけれども、そのコーラスが歌のなかの男の心情を代弁しているようなところがあって、そういうところもわたしは好きだったなあ。
 あとわたしが思い出す「Midnight」の曲というと、ウィルソン・ピケットの「イン・ザ・ミッドナイト・アワー」とかマイルス・ディヴィスの「ラウンド・ミッドナイト」あたりかなあ。古いところではベルト・ケンプフェルト楽団の「真夜中のブルース」なんていうのもあった。今朝はこれらの曲はかからなかったけれども、まだまだいっぱいあることだろう。

 番組が終わって、北のスーパーへ買い物に出かけたけれども、ウチのすぐ近くの家で、窓からネコが外を眺めていたのと目が合ってしまった。このネコは以前も姿を見たことがある。

     

 その向こうにヒヨドリが来ていたのを写真に撮ってみたけれども、このオートフォーカスのカメラは肝心のヒヨドリにはピントが合わず、手前の枯れ枝の方が鮮明に写ってしまうのだった。「レンズの中央にあるモノにピントを合わせろよ!」とは思うのだが、このカメラの大きな欠陥。

     

 昼からは想田和弘監督の「観察映画」、前の『選挙』の続篇というべき『選挙2』を観た。ちょうど兵庫の知事選挙のことで「公職選挙法」のことも話題になっていたわけだけれども、タイムリーにそういうことに触れられていた場面もあった。
 しかし映画の撮られたときは「東日本大震災」の直後で、皆が放射性物質による大気の汚染を恐れていた時期。この映画の主人公ともいえる山内和彦氏は、「脱原発」をスローガンに無所属で立候補したのだった。
 わたしも観ながら当時のことを思い出したりもするのだったが、実は今わたしが住んでいる地域は福島県以外では突出して「放射線被爆」の値の高かった地域で、それは事故原発から空中を飛来した放射能が、雨によってこのあたりに降り注いでしまったものと考えられている。当時はこのあたりのあちこちで「放射線量」の計測が行われていたし、農作物は忌避された。医療機関では「甲状腺がん」の検診なども行われていたのだった。
 あれから13年経つわけだが、たいていはその後の雨によって洗い流されたとはいえ、今でもこのあたりの土地の放射線汚染は他の地域よりも高いことだろう。

 このことに関連して、国民民主党の玉木代表は先日石破総理を訪問、面会して、「次期エネルギー基本計画」に原発新増設を盛り込むことなどを要望したのだという。わたしは「原発」には反対の立場だけれども、そのことは置いておいても、このようなことを国会の議論の場で持ち出すのではなく、今は国民民主党キャスティングボートを握っているからとばかりに、ちょくせつ面会して総理大臣に要望するというのは、「思い上がり」なのではないだろうか。

 夕方はテレビの「報道特集」で、「兵庫県知事選挙」の問題点をあらためて追及したものを見た。20分ほどの特集だったが、わたしなどネットやテレビの報道で断片的に得ていたポイントが、こうやって「ひとつの大きな問題」として提示されたのを見て、あらためて「今の日本ではヤバいことが起きている」との認識を得た。とにかくは前の「東京都知事選挙」のときから今の選挙制度を悪用する動きがあるわけで、まずはその点をしっかりとただすべきだろうとは思う。そして「SNS」の問題。今回の「兵庫県知事選挙」のようなやり方がまかり通れば、かんたんに「ファシズム」が成熟してしまうことだろう。そのことはなんとしても防がなくってはならない。