ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『山荘綺談』シャーリイ・ジャクスン:著 小倉多加志:訳

 シャーリイ・ジャクスンのことを知っていようが知るまいが、英米の「幽霊屋敷」モノのゴシック・ロマンでは相当に有名な作品。主人公の「霊視」の背後に、主人公が妄想を生む心理が要因ではあり、その「屋敷」で過去に悲劇があったということでも、ヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』と並べられることも多いと思う。
 その『ねじの回転』が1961年にイギリスのジャック・クレイトン監督によって映画化され(邦題『回転』)、評判も良かったことを受けてか、この『山荘綺談』も1963年にアメリカのロバート・ワイズ監督によって映画化されている(邦題『たたり』)。ロバート・ワイズ監督といえば『ウエスト・サイド物語』や『サウンド・オブ・ミュージック』のミュージカル映画の巨匠という感じだけれども、実はこういうB級センスのサイコホラー映画やSF映画演出の名手ではあったという。わたしはその『たたり』をまだ観ていないのだけれども、機会があればぜひ観てみたいものだ。
 また、1999年には、あのヤン・デ・ボン監督(そういう人がいたのだった)が『ホーンティング』として『山荘綺談』を映画化しているが、こっちは「なんやねん」と、悪評ふんぷんたるありさまのようだ。

 この、古い屋敷に霊が棲みつき、訪問者を取り込もうとするともいえるストーリーは、スティーブン・キングにも気に入られ、つまりはあの『シャイニング』が生み出されるきっかけにもなっているという。たしかに、読めば「ここのところはそのまんま『シャイニング』ではないか」という場面もある。

 物語は、「超自然現象」というものを科学的に解明しようとするモンタギューという哲学博士が、いわゆる「霊感の強い」という2人の女性を選び、「幽霊屋敷」とも言われる人里離れた大きな屋敷に、その屋敷のオーナーの親族のルークという若い男と共に、4人で「合宿」のように住み込む。それで博士は「何が起こるのか?」「2人の女性の反応は?」などと観察するわけだ。

 2人の女性とは、幼い頃に住む家に小石が降るという現象を体験した32歳になるエリーナーと、カードを見ないで当てる名人というセオドラと。
 エリーナーは実は長いこと母の面倒をみつづける生活をつづけ、外の世界のことをほとんど知らなかったし、「今の孤独な生活から逃れて外の世界に出会いたい」という、過剰に強い期待感を持っている。それはほとんど「妄想」を産み出すほどのものだろうか。
 「屋敷」に到着したエリーナーは、出会ったセオドラに過剰な期待をするのだが、そういうところではセオドラは機転は効くものの、「調子を合わせているだけ」なのかもしれない。エリーナーはあるときはセオドラに気もちを合わせて「いちばんの友だち」と思いもし、「ここを出たらあなたといっしょのところで生活したい」とも思うのだが、あるときは彼女のことを「顔も見たくない」というほどに憎み嫌うことにもなる。この感情の変化は、エリーナーの中でネコの目のように起こる。
 そして、3日目の夜だかに、ついに「怪異現象」が起きるだろうか。エリーナーは自らの「妄想」の中に沈みこもうとするのだろうか。

 作品は基本的にエリーナーの視点からのみ進行し、エリーナーの「内面」のうつろいこそが、「ひとり語り」に書かれて行く。その彼女の内面の「揺れ」こそが、屋敷の中で起こっている「超自然現象」よりも、よっぽど怖いわけだけれども、実はそんなエリーナーの心の「揺れ」とは、この「屋敷」の「意志」、「意図」にあやつられているとわかるとき、尋常ならざる恐怖感を感じることになるだろう。
 どんどんとエスカレートするエリーナーの意識は、過去のこの屋敷の住人の「悲劇」を追いなぞるようであり、まさにヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』のラストのように(もしくは『シャイニング』のように)、ついには「同化」してしまう。

 まあリアルな視点から言うと、この「合宿」の企画者であるモンタギュー博士は、さいしょに屋敷に「超常現象」が起きたとき、「これは人命にかかわることだ」と、合宿を中止すべきではあっただろう。でもまあ彼は「研究」したかったのだからしょうがないが。

 わたしは小説作品としては、オールドミス(これは今では「禁句」だろう)家庭教師の、自らのコンプレックス、妄想を取り込んで外界の古屋敷とリンクさせてしまった、ジェイムズの『ねじの回転』の方が一枚うわてだという感想はあるけれども、やはりヒロインのコンプレックス、妄想を取り込んで「幽霊屋敷」というものをストーリーに活かしたということでは、この『山荘綺談』にも一日の長があるとは思う。うん、どっちもいいよ!

 なお、現在はこの『山荘綺談』という文庫本は絶版で、今は「創元推理文庫」から『丘の屋敷』というタイトルで翻訳者を変えて刊行されているようだ(ちなみに、原題は「The Haunting Of Hill House」ではある)。
 

2021-10-19(Tue)

 昨夜はニェネントくんはベッドに来てはくれなかった。気まぐれのツンデレなんだからしょうがない。ニェネントがいるのは、いつもの定位置のキャットタワーの上。なんか鋭い目線ですね。

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 昨日につづいて今日も気温は上がらなかった。おまけに今日は雨になるという予報。今日もパーカージャケットを着て家を出るが、ほんのちょびっと雨も降っていた。セーターでも着ていないと寒いような気候だった。

 仕事中には外は雨も降っていたようだけれども、仕事を終えて帰るときには雨もやんでいて、けっきょくこの日は傘を使わないですんだ。
 帰り道に、行き交う人たちの服装とかにも目が入ってしまったけれども、もうかんぜんに「冬」だね、というように、オーバーやコートを着ている人も多かった。袖も襟もモフモフの、「ぜったい真冬用」というオーバーを着ている人の姿もあった。昨日はまだ半袖シャツ1枚でがんばっている人もいたけれども、今日はそ~んな勇気のある人は見かけなかった。

 自宅駅に着くと、こんなに寒い日だというのに、駅前の喫茶軽食の店には「氷」ののれんがぶら下げられていた。まあ先週までは暑かったから無理もないが、今日の天候では「あり得ない」だろう。

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 今日はネコたちにも会うことはなかったが、線路際でカラスがぴょん、ぴょんと飛び跳ねていた。ほんとうはもう一羽いて、二羽でいっしょに遊んでいる感じだったけれども、写真では一羽しか撮れなかった。

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 しかし、曇天で陽も射していないし、やっぱり寒い。カラスたちは寒いとは思わないのだろうか。ウチに帰っても室内はやはり冷え冷えしていて、暖房器具を引っぱり出したい気分になる。

 読んでいたシャーリイ・ジャクスンの『山荘綺談』を読み終えた。次は何を読もうかと考え、同じシャーリイ・ジャクスンの『ずっとお城で暮らしてる』を読もうかと本棚を探してみたけれども見つからない。「ああ、自分では持っているつもりでいたけれども、実は持っていなかったのだ」と合点し、やはり読みたいのでAmazonで検索して見つけ、注文をした。

 注文を終えてから、別件で本棚をみていると、そのシャーリイ・ジャクスンの『ずっとお城で暮らしてる』がちゃんと並んでいるのだった(というか、上の段に横になっていたのだが)。あわてて注文をキャンセルした。
 以前こういうことをやらかして、すでに持っている本をまた注文してしまったこともあったが、今日はそんな「最悪のドジ」の前でなんとか踏みとどまった。しかし、マーケットプレイスの店には迷惑をかけたのだ。
 それで明日からはパトリシア・ハイスミスの遺作『スモールgの夜』と、先日買って放置してあったRose Simpsonの『Muse,Odalisque,Handmaiden』とを並行して読むことにした。
 

2021-10-18(Mon)

 夜中に、ニェネントがベッドに跳び乗って来た気配で目覚めた。布団越しにニェネントがわたしの上に乗って来てるので、ニェネントの重みがわたしに伝わる。ぼんやりと目覚めてベッドのわたしの胸から下を見てみると、ニェネントがわたしの上にいるのだった。
 ニェネントはもぞもぞと動いて、わたしのからだの上で「ふみふみ」している。これは、ニェネントがわたしのことを「おかあさん」みたいに認識しているということだろうか。こういうことをやってくれるのもずいぶんと久しぶりのこと。ふふっ、ニェネントもまだ幼いというか(11歳だしね~。人間ならば小学5年生ぐらいよ)。
 昨夜、キャットタワーの上にいたニェネントを拉致して、無理矢理に遊んだことの成果があったのだろうか。とにかくは、わたしの上でニェネントがもぞもぞやっているので、眠れない。
 そのうちにどうやら、ニェネントもわたしの脇に移動したようで、わたしも楽になった。ちらっと見てみると、ニェネントは布団の上で、わたしと並んでおとなしくなっているようだった。‥‥むむう、ニェネントくんとこうやって、並んで寝るというのもずいぶんと久しぶりのことだなあ。
 どうやらそのあとはずっと、ニェネントはわたしの脇に並んでいっしょに寝ていたようだった。こういうのは何よりもうれしいね。小さな幸福感。ありがとう。

 時間が経って、わたしがトイレに立ったので、そのあとはニェネントくんもキャットタワーの上に移動してしまったが、何という「すばらしい夜」だったことだろうか。

 出勤で起きる時間になって起き出して、仕事の準備をして外に出て「バイバイ!」とニェネントに挨拶してドアを閉め、鍵をかけて出かける。今朝はすっごく寒く、ついに厚手のパーカーを着て外に出た。これでもまだ肌寒い感じだけれども、昼になると気温が上がって、これでは暑くなってしまうかと思う。
 この朝は雨もなく、空には星が見えた。あの星は土星なのだろうか?

  駅に近づくと、なぜか南東の空に明るみが見られた。地平線のあたりの雲が明るい。もう今の時期は「日の出」の明るさが空にあらわれるようなこともないと思うが、カメラをこういう明るさでも撮れるようにセットして撮ってみると、じっさいの視覚以上の明るさで空が明るいのが撮れた(ほんとうは空はほとんど真っ暗である)。

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 もっと駅に近づくと、もう「日の出」とはぜったいに関係もない北西の空にも、やはり明るい雲が見られるのだった。写真としてはこっちの方がうまく撮れた。でも、こういうこともあるのだなあと、ちょっと奇異な感覚ではあった。この雲の明るさは、どこから来るのだろうか。

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 今日は帰りに、ひと駅乗り越したスーパーに寄って、ズボンを買うつもりでいる。
 しょっちゅうはいていたズボンは膝のところに穴があいてしまったし、他のズボンも裾のところが擦れて破けてしまったりしている。新しいのを買うときだろう。

 わたしはズボンとかって、もっと値の張るものだと思っていたのだけれども、そんな想像よりもずっと安かった。そりゃあ「デフレ」と言われるわけだとも思ったが、「これはいい」というモノを安く買えたので満足。
 今日は昼食の準備もしてないので、「海鮮丼」などを買って帰った。けっこう昼になって気温は上がったようだけれども、パーカー着用でそこまでに暑いということでもなかった。

 スーパーからの帰り道、電柱の上に「スズメ?」という鳥がとまっていたのを離れた距離から撮影したが、これはウチに帰ってから写真を見たら「スズメ」ではなく、どうやら「ヒヨドリ」ではないだろうかと思った。このあたりで出会う鳥は、スズメ、カラス、ハクセキレイ、そしてハトとかが多いけれども、その次あたりがヒヨドリだな。

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 ウチに帰って、買った海鮮丼を食べ、もちろん、寄って来たニェネントくんにはサーモンを分けてあげる。
 テレビをつけると、この日は総選挙を受けて、日本記者クラブ主催の「党首討論会」というものが中継されていた。こういう本格的な政治イヴェントというのも、ずいぶんと久しぶりに見る気がする。NHKは日曜の朝に政治討論の番組を毎週やっているが、明らかに自民党に忖度した「討論会」で、見る気がしなかった。
 まあ普段から各政党に関してはいろんなところで問われているようなことがストレートに質問されていたようではあったけれども、それぞれの党首が答えたあとの「再質問」というものがないので、以前のスカ前総理の記者会見みたいなところはある。
 しかし、もしも今も自民党総裁がスカだったとして、彼はこういうプロンプターの使えないような討論に出て来ただろうか。なんだかんだと理由をつけて、出席を拒んだのではないだろうか? そういうこともなく、新しい自民党総裁の岸田氏を含め、各党首が一堂に会して記者団の質問に答えるというのは、「まだ<民主主義>の精神だけでも守られている」という感想にはなった。岸田首相は今のところ、安倍元首相のように「呼吸するようにウソをつく」人間ではないようだし、スカ前首相のような「脳なし白痴」人間ではないように見受けられる。
 もうずいぶんと長いこと、マトモな国会審議というのが行われない国になってしまっている感があるけれども、例えば安倍元首相がどこまでもごまかし通そうとした「森友問題・<桜を見る会>問題」を再調査するとか出来るのか。出来ないのだろうな。
 

『ノン子36歳(家事手伝い)』(2008) 熊切和嘉:監督

 熊切和嘉の監督作品だったのだな。わたしは熊切和嘉監督がダメだとは決して思わないけれども、ど~してこの人はこうやって、「昭和時代の演歌風ニューミュージック、またはニューミュージック風演歌」みたいな映画を撮るんだろうか。

 都会に出て芸能界でデビューしたけれども「鳴かず飛ばず」で、しかも自身のマネージャーと結婚するもすぐ離婚、田舎の実家が「神社」で、つまりはそこで家事手伝いの隠遁生活をおくるヒロインのノン子。その神社の祭りで「ひよこ」を売ろうとやって来る若い男と知り合い、男は雨で祭りが延期になったあいだ、ノン子をたよって神社に居候している。そこにノン子の前夫、元マネージャーがあらわれ、「また東京で仕事やろう!」とか持ちかける。ひよこを売ろうとする男にも心が動くし、前夫の登場で「動こうか」となるノン子だけれども‥‥、という話。

 だいたいこの、晴れやかな「上昇志向」の「東京」があって、一方で「吹きだまり」のような田舎、という対比が「どうよ?」という感じ。もちろん、そこまでに図式的な描き方ではないのだけれども、「2008年にこ~んなスナックが?」というような、<和風スナック>というスポットも、さらに「こ~んなところ、どこに?」という感想にはなる(まあ、あるところにはあるのだろうが)。なぜか丁寧に撮られた男女のからみもまた、「昭和ロマンポルノ」ですか?というところだし、保守的な田舎の人たちだってステレオタイプだろう。
 そもそも、「東京」に対抗してだかなんだか、「田舎の神社の祭り」というのも、「どうよ?」ってところだ。
 まあ思い返してみれば、最近観た日本映画でも山戸結希監督の『溺れるナイフ』もしつっこく「田舎の祭り」を舞台にしていたし(蓮實重彦氏は「2回も祭りを出しやがって」と怒ってたが)、さらにさかのぼれば相米慎二監督の『お引越し』だってそうだ。この映画を観て振り返れば、な~んかみ~んな「日本の田舎のお祭り」に頼ってるみたいで、寂しいというか、「田舎と言えば<祭り>かよ!」というイマジネーションの貧弱さも感じてしまうではないか。

 わたしは別に「脚本のリアリティ」みたいなことを言いたくはないのだけれども、やっぱり、例えばこの「ひよこ」を売りたい若い男は、雨で祭りが順延した一週間のあいだに「出店するための」根回しとかしねえのかよ!とは思うし、さいごにノン子がその男を「置いてきぼり」にする場面、男がタバコを買いに行くんなら女もいっしょに買いに行くのが普通ではないのか。「タバコ買って来るから待っててくれ」というのはおかしいのだ。普通、「タバコ買うから、いっしょに来てくれ」だろう? 例えばそれが、「ちょっとトイレ行ってくるから待っててくれ」だったら了解は出来る。とにかく、脚本なんか多少ぶっ飛んでてもいいんだけれども、やっぱり「不自然」だとは思ってしまったな。不自然なものは不自然だ。
 その脚本のことでしつっこく言っておけば、だいたい実家の「お母さん」とか、ノン子の妹、そして自分から馬脚をあらわす前夫など、あんまりにも描写が浅いではないか、とは思ってしまう。そして、「リアリズム」の観点からいうと、荷物も持たずにやって来た男が、毎日毎日違うTシャツに着替えてたのも「ど~して?」とは思ってしまったのだった(まあ、ノン子が貸してあげたのかもしれないが)。さらに、「ひよこ」ってえのは一週間も経つとすっごい成長してしまうのだな。もう「ひよこ」とは呼べなくなる。まあそういう「リアリズム」は、ここではどうでもいいことかもしれないけれども(わたしは白けた)。

 冒頭しばらくのカメラ・アイはとってもよくって、綿密なロケハンとか絵コンテの勝利だろうかとは思ったけれども、そのうちにどうも、そんなことはどうでもよくなってしまったみたいだった。あとは、気味悪くもセンチメンタルな音楽は、まったくわたしの好みではなかった。
 

2021-10-17(Sun)

 普段の平日、仕事のある日には朝起きるのがあまりに早いし(4時前に起きる)、落ち着いて朝食を食べるということもなかなかなので、バナナ1本で朝食にしている。あとは毎日「肉まん」を職場へ持って行き、仕事の休憩時間(9時半から)に食べるようにはしている。それが土曜日曜の仕事が休みの日にはとにかくはのんびりしてしまうこともあり、目覚めてしばらくして落ち着いてからインスタントコーヒーを淹れ、食パンにハムと「とろけるチーズ」をのっけてトーストして朝食にしている。
 そのトーストを焼いているとニェネントがやって来て、パソコンを置いてある机の上にあがってくる。実はこれはわたしが、トーストからトッピングのハムとかチーズをニェネントにあげるということが昔っからの習慣になっているせいで、わたしがトーストを焼きはじめると「ハムとチーズを分けてもらえるな」と、机の上で待ち受けるのだ。
 ほんとうはハムもチーズも「人間用」のものだから、ネコにはきっと塩分が多すぎるだろうとは思う。まあいつも、「ほんのひとくちだから」と分けてあげるのだけれども、そういう「ほんのちょっとだから」というのでも、やはりネコには良くないのではないかということだ。う~ん、でもやはり、そういう休日の朝食をニェネントと分けて、いっしょに食べるというのはちょっとした「幸福感」なもので、どうしてもあげてしまうのだな。

 今はニェネントくんは、リヴィングのわたしのうしろに置いてあるAmazon段ボール箱が「お気に入り」で、ふっと見ると、その段ボール箱の中に入っていることが多い。ネコはこういう段ボール箱が大好きなのだけれども、特にこのAmazon段ボール箱はニェネントくんにはジャスト・フィットのサイズの、お気に入りのようだ。

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 今日は朝から雨になり、室内にいても外の雨の音が聞こえてくるから、けっこう強い雨なのだろうと思った。
 10時近くになって、どうやら少し雨足も弱まって来たようなので、傘をさして北のスーパーへ買い物に出た。国道をまたぐ歩道橋の上から、ちょっと写真を撮ってみた。

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 スーパーの近く、郵便局の手前のところで、歩道に大きな水たまりが出来てしまっていて、渡るのに苦労する。ここにこれだけの水たまりが出来るのはめったにないことで、やはり雨量が多かったのだろう。こういうときは気をつけないと、通り過ぎる車がはねた雨水がビシャッと歩道を歩く人にぶっかかる。
 買い物のメインは来週の朝食用のバナナ、そしてネコ缶、たまごなどなど。
 それで一週間分買い置きするバナナの保存法についてなのだが、バナナは低温が苦手だということで、冷蔵庫に入れて保存するとだんだんに皮が真っ黒になり、逆に傷みが早いから外に出して「常温保存」がいいというのを信じ、けっこう長いこといつも常温で放置していたのだけれども、いやいややっぱり傷むのね。皮は黒くはならないけれども、もう3~4日も外に出しておくと皮がぼろぼろになり、実の方もちょっとでもぶつけたところがあるとそこからどんどん傷んでしまう。それに夏のあいだは外に出してあるとナマぬるい感じで美味しくはない。
 それでこの夏、「どっちにしても傷むのだから」と、冷蔵庫で保存するようになった。そうすると、最近売られているバナナはどこか保存耐性が変わってしまったのか、何日冷蔵庫に入れておいても皮に黒い斑点も出来ないし、傷む度合いもかなり少ないし、とにかくは食べるときにひんやりと美味しいのだ。どうしてこういう風に、ネットなどで推奨されている保存方法なんかよりな~んも考えないで冷蔵庫保存した方がよくなったのかわからないけれども、まあ、いつまでもネットで言われているような「常温保存」をつづけなくってよかったとは思っている(あと、「冷凍保存」という方法もあるようだけれども、解凍して食べるのがたいへんだろうと思って却下)。

 午後にはほとんど雨もやんだようだったけれども、わたしは「何か映画でも観ようか」と、「GYAO!」で配信されている映画をチェックしてみると、『ノン子36歳(家事手伝い)』というのがこの日までの無料配信で、まあわたしは「今日まで無料配信ね!」というのをあわてて観ることが多いのだけれども、タイトルから以前観た前田敦子主演の『もらとりあむタマ子』を連想し、「ああいうのなら楽しいな」と観てみるのだった。‥‥まあ、『もらとりあむタマ子』とはまるで違う映画だったわけだけれども。

 映画を観たあとは、テレビで『世界遺産』をチラチラと見ながら、残っていたもやしとかを使ってちゃっちゃっと夕食をつくって食べる。買ったもやしをロスしないで完食できたのでよかった。

 食事のあとはゴロッと横になって、『世界ネコ歩き』を見る。この日はブルガリアで飼い牛といっしょに暮らすネコの家族だった。見ていると、何ものかがわたしの頭の髪をクシャクシャとやる。「何者ぞ!」と見ると、わたしの頭の後ろでニェネントがかしこまっているのだった。
 けっこうニェネントくんもおとなしくしていて、何となく、ニェネントくんもテレビに映っているネコの姿を見ているのではないかと思った。

 寝るとき、このところわたしと遊んでくれないニェネントくんがキャットタワーのてっぺんで丸くなっていたので、わたしの方で拉致してベッドでわたしの胸に乗せ、たっぷりと遊んでしまったのだった。
 

2021-10-16(Sat)

 昨日一昨日とけっこう遠出をしたせいか、「お疲れ気味」である。休日なのをいいことに、朝から何もしないでゴロゴロとしている。今日はウチから一歩も外に出なかったが、夕方前に窓から外を見ると、「この日の夕焼けは美しかったのではないだろうか」というような雲が見られた。

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 今はシャーリイ・ジャクスンの『山荘綺談』を読み始めているのだが、昨日の電車の中、そして今日のベッドの中とで、ようやっと半分近くまで読み進んだ。なんとか、明日明後日ぐらいには読み終えたい。この日記を検索すると、この作品は2年前にも読んでいたようだけれども、もうほとんど記憶していない(だからこそ今また読んでいるのだが)。

 木曜日の帰りに東のスーパーに立ち寄って、半額になっていたお弁当とか買ったのだが、そのときにやはり半額の「もやし」も買ってある。単に半額というのではなく、2袋まとめて1袋の価格になっていて、さらにそれが「半額」なのだった。つまり四分の一の超破格値だったわけで、それは「お買い得」感もあるけれども、とにかくは「もやし」がいっぱいで、賞味期限の短かい「もやし」を、一気に食するのは大変である。それで、昨日今日と「もやし」を使った献立をあれこれと。
 しかしおかげで、昨日の夕食には冷蔵庫の中でひん死の状態だった「なす」を「もやし」と炒め、フードロスを逃れたし、今日は今日で同じように、死にかけていた「トマト」を、「もやし」と「たまご」と炒め合わせ、わたしの胃に救出した。
 今はトマトが高値なので、安値で売られているとついつい買ってしまうが、実のところ、トマトを食べる機会というのは今のわたしにはそれほどにはないのだ。同じように、秋は「なす」だね、という感じで安い「なす」を買うのだが、そ~んなに食卓に上げないままに冷蔵庫の中で傷んでしまうのだ(先日はついに、冷蔵庫の中で食用不可なまでに傷んでしまった「なす」を一本、そのままゴミ箱に入れてしまった。こういうことは心が痛む)。鮮度の高い「なす」も「トマト」もおいしいのだけれども。

 今はテレビのニュースとか見ても、この月末の衆議院選挙に関連した報道ばかりで、「そんなこと、結果が出なければなんとも言えないじゃないか!」って気分で見る気にもならない(もちろん、各党の論点を報道して人々の指針となるという目的はあるだろうけれども、わたしの場合はとっくに「指針」は決まっているし)。インターネットのニュースとかを見ても、気分が明るくなるような報道はないようだ(今日見た海外の映像で、山道を走っていた車をどこまでも追いかけてくるイヌがいて、あまりにどこまでも追って来るので車の主がイヌを救い上げ、けっきょく自分で飼うことにしたというニュースは「いいな!」と思ったが)。
 わたしには今、なぜ多くの人が皇室の女性の結婚問題にここまでに過激に反応するのか、まったくさっぱりわけがわからないし(その結婚相手の男性が皇室に入るというわけでもなく、彼女は皇室から離れて「一般人」になるというのに)、それから相変わらず、未成年で重い犯罪を犯した犯人のことで「氏名を公表しろ!」という声が大きいことも、わけがわからない。そういった未成年者の犯罪者の、氏名が公表されることにどんな「利」があるのだろう。その名前から住まいを特定し、石でも投げに行くのだろうか。
 今はそんな、犯罪を犯した犯人の実家への、「犯罪」といえるような「恫喝」「嫌がらせ」、そして「脅迫行為」も多いことは、わたしも知っている。そんな「犯罪者」のきょうだいは仕事をつづけられなくなるし、家族もけっきょくは転居を余儀なくされるという。
 そのようなことを行う人々は、「正義感」からやっているつもりでいるようでもあるが、結果としてそれは「弱者いじめ」なのである。もしも彼らが自分らの「正義感」からそのような行動をするのであれば、例えば先日福岡で死刑判決を受けた暴力団組長宅とかにも、そういう「恫喝」「嫌がらせ」「脅迫」をやればいいのである。ただただ、バカバカしいことではある。
 

2021-10-15(Fri)

 実は、こうやって秋も深まっても、夜になってニェネントくんがベッドの上に「遊んで~!」とやってくることがほとんどない。去年とかは毎晩のように寝る前にニェネントと遊んだ記憶もあるので、「つまらない」というか、「何かニェネントの中で変化があったのだろうか?」とか思ったりもする。
 でも昨夜は、久しぶりにニェネントくんがベッドの上に遊びに来た。抱き上げてわたしの胸の上にのせ、頭やからだをなでてあげるのだが、それでも以前に比べると短かい時間で「もういい」と、ベッドから降りて行ってしまうのだった。そのあとはずっと、ベッドの脇のキャットタワーのてっぺんで丸くなっているのだけれども、このキャットタワーは去年のキャットタワーから買い替えたものだし、去年はここまで夜中じゅうキャットタワーの上にいることもなかった。ひょっとしたら、この新しいキャットタワーのてっぺんが、前以上に夜の時間を過ごす「お気に入り」になっているのかもしれない。

 さて今日は仕事は休みをもらって、国分寺のクリニックへ出かける。特に検査診察を行うわけでもなく、ちょっとした問診を受けて処方箋をもらうだけのことではある(この日は血液検査の採血があったが)。
 昨日は常磐線に延々と乗ったのだったけれども、今日は今日でこんどは武蔵野線で千葉~埼玉~東京と、都心を遠巻きにして関東平野をぐるりとまわる。

 家を出て少し歩くと、近所のウチの庭に、わたしのお気に入りのイヌがゴロリとしているのに出くわした。こうやって、他人の飼い犬を勝手にあれこれ写真に撮ったりしていると、「肖像権の侵害」とかになるのだろうか。
 今朝もまた、わたしに訴えるような切ない視線を向けてきていて、わたしはこのイヌのこの表情が大好きなのである(特に飼主さんに虐待を受けているなどということはないだろうが)。

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 電車に乗ったのは8時半ぐらいで、まだまだ通勤・通学時間にかかっている時間帯だろうけれども、武蔵野線はそこまでに混み合っていないし、途中には乗客もほとんどいなくなったりする。
 武蔵野線はその区間ずっと「高架線」で、乗っていても車窓風景は見晴らしがよくって気もちがいい。沿線に高層建築もないが、どこまでもまっ平らの「関東平野」で、昨日の常磐線のように山かげが見えるというわけでもない。
 わたしが中央線に乗り換える手前でちょっとばかり車内は混雑し、「意外と混むんだな」と思ったが、たいていの人はわたしと同じ駅で下車するのだった。国分寺駅到着は10時ちょびっと前。1時間半の「旅」だった。

 特にどうということもなく診察も終わり、目の前の調剤薬局で薬をもらい、帰路に着く。以前ならここで三鷹駅まで行き、駅の近くのお気に入りの古本屋に立ち寄ることが多かったが、今ウチには読みたい本がたまっているし、今はこれ以上本を増やしてもいけないと、まっすぐ帰るのだった。

 帰路に自宅駅2つ手前で途中下車し、駅前のスーパーでお買い物をする。「猫砂」や「ネコ用カニカマ」、おやつの「ちゅーる」など、この日はニェネントくん用のお買い物中心。いつも買う「肉まん」がとつぜん50円も値上げされていて、いささかショックだった。

 帰宅してからはちゃっちゃっと昼食をとり、そのあとは書かないでいたこの日記を書くことに時間を取られた。まあ毎日の日記を書くことは自分に課したタスクだとはいえ、他のことがほとんど何もできなくなってしまう。前からの悩みではあるけれども、ときどき何も書かないで放置してしまいたくもなる。