ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

2021-07-24(Sat)

 東京の、COVID-19新規感染者数が増加をつづけている。この日は2千人にも迫る数の新規感染者だったというが、怖ろしいのは、そのための検査数が6千ほどの数だったということ。つまり、この数値だけでみれば、東京の人の3人に1人近くは「COVID-19陽性」ということになる。

 実は今日は、早くに家を出て熱海に行き、熱海のMOA美術館で今開催されている(もうすぐ終了する)『竹内栖鳳展』を観ようという計画もあったのだけれども、ちょっとばかし寝坊してしまったこともあったし、やはり東京のど真ん中を通って静岡まで行くことに危惧する気もちも大きくなり、けっきょく出かけるのはやめてしまった。

 そんな、「熱海に行こう!」などと考えたのも、昨夜の開会式から始まっている<東京オリンピック禍>から逃れたいという気もちもあってのことだったが、今日は一日、ムリしてでもテレビは見ないようにした。ただ、この千葉県地域のテレビ放送<チバテレビ>というやつ、番組表をみてもまるでオリンピック関連の放送もないようだったので、ちょこちょこと見ることはあった。まあ真剣にみているわけではないのだけれどもそれなりに楽しめる番組もあり、これからはこの<チバテレビ>をチャンネル設定のデフォルトにしておこうと思うのだった。

 ツィッターの投稿や、ネットのニュースなどで昨夜の「東京オリンピック開会式」のことなど多少は読んでしまったが、テレビやネットの動画などでそんな「開会式」のことはこれっぽっちも見ないですませた。この「東京オリンピックパラリンピック」がいつまで続くのか、実はちゃんとは知らないのだけれども、わたしとしての「アンチ」の気もちとして、会期中は決してテレビではそのような「競技中継」はもちろん、それに絡んだ報道も見ないようにしようと決めている。つまり、一面で「しばらくはテレビは見ないようにしよう」ということでもあるけれども、<チバテレビ>なら見ていてもいいかな?と思うのだった(といっても、今日もせいぜい30分ぐらい見ていただけだけれども)。あとは、<テレビ東京>もいいかもしれない。

 午後からは、「オリンピックが始まったら観よう!」と取っておいた、テレンス・スタンプ主演の『ランボー/地獄の季節』のDVDを観た。これからは毎日、ウチにストックしてある「まだ観ていないDVD」を観ていこうか、とも思う。

 このところニェネントが和室の押入れにこもりっきりだということは前に書いたが、今日の午後は珍しく、リヴィング周辺でけっこう長時間くつろぐニェネントくんだった。
 やはり、ちょっと振り向くとそこにニェネントくんの姿があるということは、何といってもうれしいことだ。

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『ライトハウス』ロバート・エガース:監督

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 わたしとしては、まずは近年傍役ばかりであまりフィーチャーされないウィレム・デフォーがたっぷりと拝める、という気分で観ることを選んだ作品。
 監督はロバート・エガースという人で、2015年に『ウィッチ』という作品で監督デビュー。この作品が2作目だということ。出演はほとんど二人っきりで、それがウィレム・デフォーと、もうひとりロバート・パティンソン。この二人が、絶海の孤島にそびえる灯台で一ヶ月の共同生活をし、灯台の保守管理を行うと。
 どうやら年配のウィレム・デフォーはこの前にも灯台での仕事の経験があるようで、ロバート・パティンソンにあれこれと指示を出す。ウィレム・デフォーは最上部の「灯室」の仕事は自分の領分としてロバートを上げさせない。また、「決して海鳥を殺めてはいけない」とも。ウィレムは夜にはさんざん酒を飲むのだが、ロバートは決して酒を飲もうとはしない。

 男二人きりの「共同生活」だから、互いの軋轢は蓄積するだろうし、それは特にロバートの側に顕著ではある。ウィレムが「海鳥を殺すな」と言ったのは、前にそのせいで人魚の幻覚を見るようになり発狂した男を知っているからだが、けっきょくロバートは海鳥を殺し、かれもまた「人魚」を見ることになる。

 ハーマン・メルヴィルの日記(『白鯨』の創作ノート?)やエドガー・ポー、そしてベケットなど多くの作品からのアイディアを詰め込み、さらにギリシア神話へのパスティーシュもうかがいみられる作品。モノクローム作品で、しかもその画面はほぼ正方形に近い(これは昔のサイレント映画にあった比率だったというが)。

 わたしには、「音楽」とも「ノイズ」ともつかない、全篇を覆うハウリング音のような音に惹かれることはあったが、さて、はっきり言って、この脚本へのさまざまな(雑多な)要素の詰め込み方には疑問があるというか、「だからどうなのよ」という感じはある。こういうやり方であればいくらでも先行する文学作品なりを引用することはできるだろうし、「ではこの映画、根本のテーマは何なのか?」というと、読み取りにくい。ただ、そのラストシーンからは完全に、あの「火を盗む」ギリシア神話のテーマが浮かび上がっては来るのだけれど。

 途中、「なんやそりゃあ?」と言いたくなるようなえげつないショットとかもあり、そこで前に観た『へレディタリー/継承』という映画を思い出しもしたのだけれども、じっさいにその監督のアリ・アスターという人とこの映画の監督のロバート・エガースとは仲がいいらしいのだ。まあ近年の映画の潮流というのはそういうところに来ている、ということかもしれないが。
 けっきょく、観終わってしまえばただ「ゴタゴタしていましたね」という印象ばかりが残り、まあ『へレディタリー/継承』と同じように、「忘れてしまおう」という映画にはなりそうだ。

 ただただ、この作品のエンド・ロールのバックに、わたしの大好きなイギリスのトラディショナル歌手A.L.Lloydの歌う「船乗り歌(Sea Shanty)」が聴こえてきたときにはほんとうにおどろいてしまい、「もう、ここでA.L.Lloydの歌唱が聴けたのだからすべて許す!」という気もちにはなってしまったのだった。
 帰宅してYouTubeで検索したら、A.L.Lloydの歌唱もいっぱいアップされていたのだけれども、その映画で使われていた曲もたやすく見つかったのだった。

2021-07-23(Fri)

 今日は映画を観に行くことにして、世間にまん延している<オリンピック禍>から避難する、という計画。新宿や渋谷などの盛り場には行きたくないので、持っている定期券で行ける範囲、ちょっと歩くけれども日比谷の映画館へ行き、ウィレム・デフォーの出演している『ライトハウス』という映画を観ることにした。
 おそらくは今日あたりで上映の終わるらしい『シン・エヴァンゲリオン』を観ようかという気分もあったけれども、開映が朝の8時ということで間に合わなかった。

 『ライトハウス』の一回目の上映は10時20分からだというのだったが、わたしは計算を間違えて8時前に家を出てしまった。大手町に着いてもまだ9時前。定期のある大手町から日比谷までは電車で乗り越そうとは思っていたのだけれども、歩いても充分に間に合う。
 大手町で改札を出て、延々と日比谷方面へのまっすぐな地下道を歩く。いちおう祭日にはなっているし、時間も早いので人の姿もまばら。20分ぐらい歩いて地上に出て、もう開いていた映画館でチケットを買う。希望通り、いちばん後ろの列の席をゲットできた(わたしにとっては前に観た『アウトブレイク』という映画で、映画館の中でみんなが感染するというシーンがトラウマ的に強烈で、後ろの席の人がしゃべったり咳をしたりすると飛沫が前の座席の人にふりかかるわけだ。だから「もう誰もわたしの後ろには座らせないぞ!」というこころもち、なのである)。

 まだ開映までたっぷり時間があるし、外を歩く人の姿もみかけないので、ちょろっとあたりを歩いてみた。こんな日に<東京オリンピック>が始まるのだねえ。

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 開映時間が迫り、映画館へ。やはり最後列というのは、自分の後ろのことを気にする必要がないので快適だ。

 映画の感想は別に譲るとして、映画は終了。時計を見ると12時半ぐらいの時間。どこかで昼食を食べて帰ってもいいのだけれども、急に「節約モード」になり、帰宅してから、残っているインスタントの冷やし中華でもつくって食べることにした。ただ、やはり「冷やし中華」には「きゅうり」を添えたいので、自宅駅そばのスーパーできゅうりを買って帰るのだった。
 余談だが、この「きゅうり」という野菜、こうやって「冷やし中華」に添えるか、「ポテトサラダ」に混ぜ込むか(コレがわたしには最高のきゅうりの味覚!)ぐらいしかわたしには使いみちがなく、いつも冷蔵庫の中で「ご臨終」させてしまうばかりである。今日も百円で三本買ったわけだけれど(百円で五~六本入ったパックもあったのだけれども)、「どうやって使い切ろうか」と、今から頭を悩ませている。

 さて今日は、歯科医での治療の日であった。先週から担当医の方がそれ以前の方から代られ、どうやら以前の方はこの歯科医院の院長だったらしいのだが、ま、あんまり細かい説明をされないでグングン抜歯したり削ったりやられるのだったが、先週からの方は説明はとってもていねいである。それはいいのだけれども、「この方、大丈夫かね?」というところはあるのだ。
 今日は以前に治療されていたところの「被せもの」を外し、新しくブリッジにするための作業ということだったけれども、まずその古い被せものを外すとき、その金属がわたしの喉の奥に飛び込んでしまい、取れないままわたしは呑み込んでしまったようだ。「そういうことを防ぐように作業するのが基本じゃないの?」という気もちもあったが、さらに作業をつづけると「これは固いですね~」と、なかなか(というか、まったく)作業が進まない様子。もうここまでで治療は30分以上かかっていて、わたしも疲れただね。
 すると先生、「この歯の詰め物は予想以上にしっかりしていて、これは外さないでこれ以降の治療に使えそうです」などとのたまわれる。
 それって何ですか、「開腹手術」をしてみたら異常がありませんでした、というのに近いニュアンスなんですか?という感じ。
 それで今までガリガリ削ったところをまた復帰させるための作業がつづき、トータル1時間以上ですよ。おまけに先生、わたしが座る治療椅子とかの操作に不慣れで、わたしは治療中に何度も突然にダウンさせられたり、ターンさせられたりするのですよ。

 ‥‥これはちょっと参った。悪いけど、もうこの歯科医には通いつづけない方がいいんじゃないだろうか。まあ今の世の中にはコンビニの数ほどに歯科医院もあることだし、「もうこの歯医者はや~めた!」ということで、他の歯科医を探してみようかと思うのだった。

 夕食。実は昨日スーパーで「フランクフルト・ソーセージのオードブル」を買ったのがまだいっぱい残っていて、前にやったようにトーストパンとコーンスープとでの食事にした。
 それでこの夜は8時から「東京オリンピック」の開会式になるわけだけれども、わたしは普段から夜も8時にはベッドに入って寝ちゃうわけで、もちろん当然、そんな「開会式」など見ないまま眠ってしまうのだった。
 

2021-07-22(Thu)

 四連休が始まった。世間の動向に巻き込まれないようにして、とにかくはわたしにプラスになるように、この四連休を有意義に過ごしたい。いくつか「やりたいこと」もあるけれども、今日はとにかく家でのんびりしたい日。
 目覚めたときにまた夢をみていたようだったが、今朝はその夢のことは忘れてしまった。

 せっかくの休日で、わたしがずっと部屋にいるというのに、ニェネントはほとんどの時間を和室の押入れの中で過ごしている。きっと涼しくって居心地がいいのだろうけれども、リヴィングにいてもニェネントの姿をまるで見られないわたしは、寂しい思いをしている。

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 まさか、体調が悪いということもないとは思うのだが、たまのチャンスにニェネントをつかまえて抱き上げて「触診」してみても、(わたしの判断では)異常はないようだし、ちゃんといつも通りに食欲もあるようなので、やっぱり「わたし、とっても涼しいところを見つけちゃったんだよね!」ということで入り浸ってるのだと思うが。

 <東京オリパラ>に関しては、この日もまた<笑うしかない>というニュースが流れる。もう、いちいち反応していることもバカバカしくなってしまう(ということが上層部の狙いだったりしてね)。もう、今年になってからの<東京オリパラ>関連のゴタゴタは「喜劇」で(そもそもは2年前の<東京オリンピック・ロゴ(エンブレム)>の盗作問題あたりからつづいているけれども)、これら一連の「出来事」を構成すれば、この<オリパラ>に関して笑えるモキュメンタリーがつくれそうであり、その脚本を書いてみたくなる。
 わたしはこうやって、<東京オリパラ>の開催には反対の立場を取ってはいるけれども、こうやっていろいろとSNSなどでの人々の意見を読んでいると、例えば参加するアスリートへの非難であるとか、ボランティアへの非難だとか、「末端の方の人々への攻撃」ということで、わたしには納得できない意見も多い。もちろん「上意下達」の構造の中で、下位の人たちがそのことに気づくことも大事だろうけれども、それがそういう下位・弱者の人への「攻撃」になってしまうのは違うと思う。あくまでも誤っているのは<上意>であり、その<上意>を覆さなければならないだろう。
 というか、もう<東京オリパラ>のことをまじめに考えるのがバカバカしくなってしまってもいて、そんなことにできるだけ煩わせられないような生活をおくりたいと思うだけである。
 

『贈与論 他二篇』マルセル・モース:著 森山工:訳

 あまりに有名な「ポトラッチ」というものの概念を伝えた書物であり、民俗学的なアプローチに社会学、経済学を統合して考察した「エポック・メーキング」な一冊。
 わたしは「ポトラッチ」というものについて、ただ「無償の贈与」なのかというような情けない知識でこの本を読み始めたのだけれども、そうではない。贈与を受けたものは恐ろしい(と言ってもいい)「縛り(拘束)」を受けるのだ(それはまた、「贈与」する側にもふりかかるのだが)。それはまさに「帝国」、「貨幣経済」以前の世界の「政治学」であり、「経済学」なのであり、「では今の世界はそういうことは振り払っているのか?」というと、そういうことではないのだ。

 この書物でマルセル・モースは、考察の対象とした太平洋圏のそんな文化形態を「プリミティヴ」(「未発達」というニュアンスもあるだろうか)という言葉を使用せず、「アルカイック」という言葉を使う。ここにマルセル・モースの「現代の西欧文化こそ人類の到達点」という視点への「疑問」を読み取れるように思えるし、「学者」としてのマルセル・モースの姿勢を読み取れることだろう。

 この本(論文)が発表された時代は、まさに「ロシア革命」のショックが世界を覆った時代のものではあるけれども、マルセル・モースが興味深いのは、この論文でマルクス的な経済論に対して何ら言及してはいないこともあるのではないだろうか。
 実際、マルセル・モースは「社会主義」的な視点への共感を持つ人だったのだが、この『贈与論』はマルクス的な「共産主義」への同調姿勢は皆無である。
 もちろん、この本でマルセル・モースが取り扱ったアルカイックな太平洋圏の文化において、「共産主義的経済活動は過去からあったのだ」などとはとても言えなかったわけではあるけれども(やろうと思えば出来ただろうが)、彼がこの時代、妙にマルクス共産主義に寄り添うような論文にしなかったことで、今なおこの書物は「重要」なものでありつづけているのだろう。

 たとえばこの書物は、ジョルジュ・バタイユが引き合いに出したということでも知られているのだけれども、わたしはそんなバタイユの論考を読んではいないのでその件はわからない。
 ただわたしが興味深く読んだのは、「貨幣による経済交換」がないとき、人々はどのようにして「経済交換」ということを実践しようとしていたか、ということで、逆にその地平から現在の「貨幣制度」というものの背後に、いかに原初的制度(たとえば「呪術的制度」)が機能しているのかということを読み取るのだ。
 そこにはある意味でマルセル・モースの「現代資本主義制度」への「疑問」も読み取れるではあろうし、そのことがマルクス的な「共産主義」を目指さないということで、極めて「現代的」な書物ではあると思った。おそらくはこれからも、どんな時代になっても「現代的」な書物でありつづけるのではないかと思うのだった。

 補髄的に言えば、この日本で今も継続する「お中元」「お歳暮」の付届け、そして「結婚式」などでの儀礼的習慣というのは、まさに「ポトラッチ」の名残りではあることでしょうね。
 

2021-07-21(Wed)

 昨日書いたように、今日はウチの近くに花咲いた「リュウゼツラン」を見に行く。そのために仕事の帰りにひと駅乗り越して、ちょっとその駅前で買い物をして、帰宅がてら「リュウゼツラン」の花を見よう。

 今日も暑い。明日からは四連休にもなるので、今日はちょっとばかり丁寧に仕事をやった。疲れた。
 帰りはふだん乗り降りしないとなり駅まで行き、駅の外に出るけれども、この駅の周辺の「駅前ターミナル」とかの道路のレイアウトは、わたしのふだん利用する地元駅に酷似していることに、あらためて気づいた。駅から外へと降りる階段も、エレヴェーターの位置もまるっきしおんなじ感じだし、南口の階段を降りると目の前にコンビニ「New Days」があり、ちょうど階段の下の位置に中華の「日高屋」があるのもおんなじだ。ただ、地元駅周辺にはドラッグストアが一軒と郵便局、それと銀行のATM、いくつかの病院があるぐらいのもので、とても「駅前商店街」とかいうものもない、「何もない」寂しい駅前なわけだけれども、この駅の前からは手賀沼方向への道路があり、その両側には食堂や居酒屋、その他の店舗が軒を連ねている。

 「ちょっと駅の近くのスーパーへ行ってみよう」と、駅から左への道を歩く。その道には大きなチェーン店の支店とか個人経営みたいな店と、たくさんの居酒屋、食堂が並んでいる。この駅のある市は<緊急事態宣言>の範囲からギリギリ外れているのだろう、どの店もバンバン酒を出してフル営業モード、「<自粛>って、どこの外国の話よ?」みたいな空気がある。
 スーパーへ行ってみると、意外にもこのスーパーが、「缶ビール」が近隣のどの店よりも安いのだった。もう、この酷暑では部屋で飲む缶ビールは最高! 買いました。
 このスーパーで何かおいしいテイクアウトのランチを買って行こうと思ったのだけれども、どうもそういうのはイマイチで、駅の改札を出たところに「回転寿司」のチェーン店がテイクアウト専門のブースをやっていたから、「そっちで買おう」ということにした。駅にUターンして、そのブースで「うなぎ丼」を買った。さあ、いよいよ「リュウゼツラン」鑑賞である。

 この駅から自宅まで、歩いても30分ぐらいのもので、だいたいこの駅の北口側にあるスーパーにはちょくちょく買い物に出かけているわけだし、そんなに遠いという感覚もないけれども、やはりこの「暑さ」ではある。
 古い言い方をすれば「新興住宅地」の殺風景な道を歩くと、そのうちにJRの架線が見えてくる。その手前に、目標の「リュウゼツラン」の花がある。
 ‥‥見えた! う~ん、奇妙な風景というか、そんな住宅地の中に唐突に樹木のような花茎が伸び、「世の中にはこんな木というのもあるんじゃないの?」という感じで枝が伸びて、黄色い花が咲いていた(いや、これは「木」ではないのだ)。

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 けっこう花茎は傾きかけていて、もう倒れそうなので今週中にも伐採してしまうという話もあるらしい。

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 根元のところには、所有者が書かれたらしいボードも設置されていた。

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 花は花茎の下の方から開花していて、やはり数十年ぶりの「開花」を待ちかねた、という感じで豪勢に咲いている感じがする。

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 花茎の上の方はまだ開花していないが、この「つぼみ(?)」を見る方が、「南国の植物」というところがあるだろうか。

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 「リュウゼツラン」が花咲くと、糖分が花茎から花へと集中し、原産地のメキシコではこの花茎から花にかけてみ~んな食用になるらしいし、何といってもこの花は「テキーラ」の原材料になるのだという。

 本来だったら、こういうのがメキシコの砂漠とかに「で~ん!」と花咲くのだろうし、こういう住宅地の中でのロケーションがこの花にふさわしいのかどうか、微妙なところではあるが、とにかくは普通に生きていれば「一生に一度」出会えるかどうかという、その「リュウゼツラン」の開花、こうやって巡り会えたというのは、やはり「僥倖」というべきなのだろう。「見ることができてよかったね」と思いながら帰路に着いた。

 帰宅して、まずは缶ビールを飲む(これは先日買って冷蔵庫で冷やしてあったもの)。極上ののどごし、ただ「旨い」のである。
 買って帰った「うなぎ丼」を食べたが、この夏にいろいろと食べたあれこれのモノの中で、これこそ「いちばんの美味」の一品ではあった(わたしは「安上がり」な動物だなあ~)。

 今日は、ず~~~っと読んでいたマルセル・モースの『贈与論』をついに読了。結論まで読んで、マルセル・モースの視点はけっこう多岐にわたっているので、「むむむ、わたしはこの感想をこの日記に書くのかよ!」とは思ってもしまうのだけれども、そういうことはやはりやっておかなくってはいけない。そのための「日記」でもあるのだ。
 

2021-07-20(Tue)

 今朝も、目覚めたときに、みていた夢を記憶していた。このところ「夢」の記憶率がちょっと高い気がする。
 今朝の夢で、わたしは野外でのダンス公演(どうやら、「ニブロール」の公演らしい)を観たいと思っている。ところがその公演の時間とわたしの「ワクチン接種」の時間とが重なってしまっていて、「ワクチン接種」が早くに進行すればダンス公演も観ることができるという、微妙なところにある。わたしはすでにダンス公演の会場のそばの「待機場所」に来ているのだけれども、そこは緑濃い観光地の旅館の宴会場みたいな場所で、爽やかな空気がただよっているし、わたしの良く見知った人たちがそこにいて、公演を待っているのだった。そのうちに、なんとかワクチン接種は早く終了するらしいということで、わたしも公演を観ることができそうになる。顔見知りの人たちがわたしに「よかったね」と声をかけてくれるのだ。そういう夢だった。

 仕事の帰りに「ふるさと公園」を抜けて帰った。陽射しが強くって暑い! 今日は最近のいつものところにコブハクチョウの家族の姿が見られた。「雛」たちは日ごとに大きく成長している感じで、今こうやって写真とかででもチラッと見ただけでは、すぐには「いったいどれが親でどれが雛だかわからないな」というところになってしまったと思う(かんたんな見分け方は、「クチバシの色」ではある。雛はクチバシがグレーで、親のクチバシは黄色い色をしているのだが、もはや体の大きさでは判別がつかないところではある)。

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 今日あたりで雛たちも孵化してから80日ぐらいになることだろうが、もう、飛べるようになって「ひとり立ち」する日もそんなに先のことでもないだろうか。

 かつてわたしがイヴェントをやっていた頃からの友だちで、今はけっこうウチの近くに住んでいるKさんからツイッターでDMをもらい、そのDMは「ウチの近所に<リュウゼツラン>の花が開花してるんだよ!」ということだった。
 わたしは<リュウゼツラン>の名まえは聞いたことはあったが、いったいどういう植物なのかまったく知らずにいたのだけれども、「数十年に一度だけ花を咲かせ、花が咲くと枯れてしまう」のだという。しかもその花が高さ7~8メートルに伸びた花芯に咲くのだ。けっこうこの開花のことはニュースにもなっているのだという。
 「それってどこに咲いているんだろう?」と思ったら、Kさんがマップも添付してくれていて、それを見るとわたしは「ああ、あそこだったか~」と思い当たるのだった。
 以前、ウチから手賀沼沿いの市の図書館とかへ行っていたとき、その道沿いに「でっかいアロエ」みたいな植物が植わっていたことは気にとめていて、写真も撮っていたのだった(これはその、昔撮っていた写真)。

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 これぞまさに<リュウゼツラン>だったのだ。この真ん中から高い花芯が天に伸び、その周囲から枝分かれして無数の黄色い花が咲くのだという。「数十年に一度、今この時だけに巡り会える」という花なのだ。コレはやはり是非見てみたい。
 その場所はウチから歩いて20分ぐらいのところだから、まあ「たやすく行ける」という距離ではあるのだけれども、今は連日「真夏日」がつづいていることだし、「片道20分」というのは「往復40分」なのである。それは相当に「ヤバい」レベルかもしれない。これはウチから出かけるのではなく、明日とかに仕事の帰りにひと駅乗り越してとなり駅で降り、その「となり駅」から「ウチ」への経路でこの<リュウゼツラン>を見物してくれば、この炎天下にそこまでの負担でもないだろう。そういうことにして、明日はその<リュウゼツラン>を見に行くことに決めた!