ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

2021年4月のおさらい

Book:
●『ダブリンの人びと』ジェイムズ・ジョイス:著 米本義孝:訳

ホームシアター
●『ハワーズ・エンド』(1992) E・M・フォースター:原作 ジェームズ・アイヴォリー:監督
●『愛を読むひと』(2008) ベルンハルト・シュリンク『朗読者』:原作 スティーブン・ダルドリー:監督
●『ハイヒールを履いた女』(2012) バーナビー・サウスコーム:脚本・監督
●『私はあなたの二グロではない』(2016) ジェイムズ・ボールドウィン:原作(原案) ラウル・ペック:監督
●Dumb Type『S/N』(1995)

 このほかに、4月30日には東京の某美術館に出かけました。もう「Stay Home」にこだわるのはやめることにしたので、5月はもうちょっといろいろとあるのではないかと思います。
 

2021-04-30(Fri)

 4月30日金曜日。今日仕事に出て午前中で仕事を終えれば、あとは5月5日まで仕事は「休み」である。うれしい。やはり働きたくはない。
 早朝に駅に歩くとき、空に少し欠けてしまった月が見えた。こうやって、少し欠けてしまった方が月のクレーターのでこぼこが撮影できて、空の月をもっと身近に、ほとんど触れることもできるように感じることができる気がする。晴れた空の青も月を引き立てる。

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 今日は仕事を終えたあと、もっと都心に出て(そういう意味ではわたしの勤務先こそ「東京」のど真ん中の「都心」ではあるのだが)、今東京で開館している(おそらくは)唯一の美術館へ行き、その展示を観てみようと思っている。何度も書いているが、これは「都県境を越えないでくれ」「自宅で大人しくしていてくれ」という、今のスカ内閣政府、小池都知事への「反抗」である。もちろん、こ~んな反抗をやらかして自分がCOVID-19に感染してしまったりしたらシャレにもならないのだが、わたしはこういう反抗が「つまらない」とは思っていないし、おとなしく「お上」の要請に従わないことは大事なことだと思っている。

 今までの生活で確信したのは、今のCOVID-19の感染力ならば、例えば「通勤電車」での感染はほぼないだろうし、もちろん街中を歩くのも平気だ。厳重な対策を取っている美術館・博物館、そして映画館などの予防対策は信頼してもいいだろうと思っている。そういう施設の努力を「無」にして、自分たちは何らの対策も提示し得ずに「おまえら、休め!」という、都や国の「指令」に従うのが、はたして「良い国民」なのだろうか?
 わたしはもう、今はそういう「指令」に逆らって生きることを決めた。今日の行動も、そういう意識からのものである。また、いつもわたし自身がウィルスをまき散らす存在にならないという注意・意識を払って行動しているつもりはある。常にマスクを着用し、周囲の人との距離(ソーシャル・ディスタンス)に気を配りながら動いているつもりだ。もちろん、ウィルスの拡散というのはそんなことだけで防止できるものなのではないかもしれないけれども、もしも仮に今日の「外出」でウィルスを自分の身体にまとったとしても、明日からは5連休でもあり、わたしの知識では身体内に取り込まれることのなかったウィルスはそれだけの期間のうちに滅してしまうはずだ。そういうことを考えての今日の行動。

 ということで、今日は東京の某美術館での展示を観たのだけれども、その美術館も今の「緊急事態宣言」下の状況でオープンしていることをあまりおおやけにはしていない空気もあり(入場するときも、担当の方がエレヴェーターへの通路の鎖を外して案内してくれる)、こんな読者の少ない日記でも「あの美術館は開館している」と書いてしまうことは、昨日の都内の寄席が「上」からの要請でけっきょく休業してしまったというように、閉館への「引き金」にならないとも限らない。
 ということで、今日の行動については今はあんまり仔細に書かないことにした。

 それで3時ごろに帰宅したのだが、ふだん気にすることもないウチのアパートの「ゴミ集積場」をちょこっと見てみると、火曜日の「燃えないゴミ」の日にわたしが出した「空き瓶、空き缶」が収集されずに残っているのだった。驚いた。
 見てみると、わたしが出したゴミを入れたビニール袋にシールが貼ってあり、つまり「指定された袋に入れていない」ので収集しなかったということだ。
 さてその「指定された袋」だが、そのゴミ収集日の朝にゴミ収集場に置かれる麻袋のような袋のことで、色のついた空き瓶、無色の空き瓶、空き缶はそれぞれの配られた袋に入れるようにということなのだ。
 わたしは何度も書いていることだが、毎朝の出勤時間がすっごく早い。そしてその時間にはまだ、その空き瓶、空き缶を入れる麻袋は配布されていないのだ。つまり、わたしには「どうしようもない」のである(いちおう書いておけば、わたしはそういうゴミを前の晩に出したりせず、律儀にその収集日の朝に出しているし、指定された分類にしたがって、「無色の瓶」「茶色の瓶」「空き缶」と、別々のビニール袋に入れてゴミ集積場に出している)。
 つまり、これからこういう収集の仕方をやられるならば(前回まではちゃんと収集してもらえたのだけれども、それでも担当者はわたしの出したゴミを「指定された出し方をしない困ったヤツだ」と思っていやいや収集していたのだろう)、これからわたしはず~~~~っと「空き瓶、空き缶」を市へのゴミとして出すことが出来なくなり、わたしの家はそういう「空き瓶、空き缶」にあふれてしまうことだろう。
 わたしにとってはコレは「とんでもないこと」なので、市の「クリーンセンター」というところに電話した。わたしの事情はとりあえずは了解してくれたようだが、「ではどうすればいいか?」という明確な回答はない。
 わたしが仕事を終えて帰宅するのが1時半とか2時だという話をすると、「その時間ならまだ収集は終えていなくて、空き瓶や空き缶を入れる袋はまだ置かれているはずだ。その袋に入れてくれ」という。わたしが今まで見てきた限りで決してそのようなことはなく、12時半に帰宅するときにもすでに「ゴミ集積場」には何も残っていない。
 そのように電話口の担当に話すのだが、「そんなことはない」というばかりなので、とりあえずは次回の「燃えないゴミ収集日」をみるということになった。まあどうせ、わたしが帰宅する時間にはもうゴミの収集は完了しているはずで、また「すったもんだ」やることになるだろう。

 だいたい、このケースでわたしが1時半とかに帰宅するという話をしたからの展開にはなったわけだが(じっさいには早ければ12時半に帰宅できるのだが、こういうことを正直に話してもよろしくない)、普通の勤め人は午後5時とかまで勤務されているわけで、そういう方がいろんな事情から朝はわたしと同じような「早朝」に家を出られる方もあることだろう。それではそういう方はもう、永遠に「燃えないゴミ」を出せないということなのか?
 電話口の担当の方はわたしのことを知らないから「見くびっている」ところもあるのだろうが、わたしは決して「クレーマー」というのではなく、「市民としての権利」は追及する人間ではある。必要ならば弁護士に来てもらうとか、市議会議員に相談するとかいうこともできる市民なのだ。たんじゅんに、ただ勤めの関係で朝早く出勤しなければならないという人間が、その理由からゴミを収集してもらえないということがあるなら、それは「市による、市民の生活権の侵害」なのである。
 もちろんわたしとて、この件が円満に解決することを望んでいるけれども、どうもそういうふうにスムースにことが進むとは思えないところがある。まあ2週間先を見なければならないが。
 

Dumb Type『S/N』(1995)

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 1995年、東京のスパイラル・ホールでの公演の録画、だと思う。わたしは記憶障害のせいで、はたしてこの公演をじっさいに観に行ったのかどうか、しかとしたことはわからないでいたのだけれども、今日こうやって配信された映像を観ると、やはりわたしはじっさいに観に行っていたようだ。舞台上段のステージで、パフォーマーが次々に登場してはうしろへ倒れ込んでいく演出は、単純に「カッコいいな」と記憶に焼き付いていたし、ラストの場面も「あらあら」と観ていたわたしがいた。

 もうひとつのDumb Typeの代表的な作品『pH』は、自分で当時のVHSを持っていて何度も観ているのだけれども、こちらもわたしがじっさいに舞台を観ているのかどうかわからない。もう今ではそのVHSでの映像が強く脳裏に焼き付いてしまっているので、「じっさいに観たかどうか」はまったくわからなくなってしまっている。
 2~3年前に、大学でダンスなどの表現を教えているSさんから、この『pH』のソフトを持っていたら貸してくれといわれ、貸してあげたときにDVDにも焼いてもらって返却してもらった。
 「ダンス・パフォーマンス」グループと分類されることもあるDumb Typeだけれども、ひとつの求心的な(といっていいのか)舞台としては、この『S/N』に先行した『pH』の方が、トータルな舞台作品として「パフォーマンス」だとか「ダンス」として了解しやすいところもあっただろう。
 舞台全体を大きな「コピー機」の機構と見立て、横に長いコピー用のライトが舞台を行き来する中でパフォーマーらが「身体」を提示して行く舞台構成は鮮烈だったし、作品自体が文明批評でもあった。

 そういうところではこの『S/N』は「混沌」とした舞台だった。いくつかの(7つ?)パートに分かれた舞台は、『pH』に引きつづいてパフォーマーの身体性をみせる場面もあるし、舞台に投射されるテキストに多くを語らせる場面も、登場人物らがトークを交わすシーンも、もっと演劇的な見せ方をするシーンもあった。
 ここでの『S/N』というタイトルは、「サウス/ノース(南/北)」ではなく(わたしはそう誤解していたときがあった)、「シグナル/ノイズ」のことで、音響機器に書かれていた音の「S/N比」という表記からとられているという。つまりそれは「信号(signal)」と「雑音(noise)」のことである。
 この舞台はそこから、いわばスムースに流れて行く「Signal」に対して、ある意味その「障害」であるところの「Noise」、排除されようとする「Noise」にこそ焦点をあてている。
 Dumb Typeの創立メンバーであり、この『S/N』演出の中心メンバーであった古橋悌二氏は、よく知られているようにゲイであり、当時世界を席巻したエイズに感染していることを早くに公表し、この『S/N』海外公演のさなかに日本で亡くなられている。
 この舞台でも登場した彼は自分がゲイでありHIV陽性であることを語りながら女装(ドラァグクィーン)メイクをして行く。ひとつ、この作品ではそういう「LGBT」である存在、ということも大きなテーマであり、そこに「日本に住むアフリカ系アメリカ人」や「言葉を発することのできない人」、そして「セックスワーカー」と自らを規定して生きる女性などが登場し、まさに「性的」な大勢のなかでの「マイノリティー」の発言を聞くことができる。舞台上のバックには、Love、Death、Money、Sex、Lifeなどの文字が写し出される。そして写し出されるメッセージは「私は夢見る、私の〇〇〇が消えることを(I dream, my 〇〇〇 will disappear)」という連続する文字列に変わり、その「〇〇〇」は「性別(Gender)」「国籍(Nationality)」「権利(Rights)」「価値(Worth)」「人種Race)」「義務(Duty)」「常識(Common Sense)」へと移り変わって行く。そして、「I dream, my fear will disappear」へと。

 古橋悌二氏は、メイクを終えた姿でステージ上でBarbra Streisandの「People」を口パクで(熱唱)されるのだが、そう、この時代、女装したドラァグクィーンが「口パク」パフォーマンスを行うというのは、ずいぶんと流行ったものだった。そして、Barbra Streisandもまた、ゲイ・アイコンとして人気があったものだった。
 その後、Dumb Typeは「マルチメディア・グループ」と分類されているようだけれども、この異様に洗練された部分と「混沌」とした部分とを共存させた舞台というものは、(わたしもそれなりにいろいろな舞台を観てきたけれども)やはり今でも強烈なインパクトを受けるものだとは思う。それはこの作品の持つ強い「同時代性」にも由来するものではないのか、とも思う。1995年に「同時代」として人を圧倒した舞台は、四半世紀を経た2021年になった今、やはりわたしを圧倒するのであった。
 26年前の「HIV禍」から、今は「COVID-19禍」へと変遷し、またふたたび、「全体」の前に「マイノリティ」は抑圧されようとしているように思える。
 わたしは「LGBTI」ではないのだが、今「全体」が「マイノリティ」を抑圧しようとする空気は強く感じる。そういうとき、わたしは決して「全体」の側に組するのではなく、どこまでも「マイノリティ」の側から世界を見つめ、もしもわたしが「行動」をとれるならば、「マイノリティ」の側から行動をしたい。
 この26年前の映像を観ながらわたしは、そんなことを考えているのだった。
 

2021-04-29(Thu)

 ほとんど今日から、大連休の始まりである。いちおう明日はちょこっと仕事に出るけれども、まあ翌日は仕事も休みだというのは半分休みみたいなものだから、そのあとは5連休が待っている(そういう意味では、明日の朝は早起きして仕事に出なければならないという今日こそ、ゆっくりとは休めないわけで、あんまり「休み」という気分ではない)。
 今日は「出かけようか? 映画でも観に行こうか?」というつもりもあったのだけれども、夕方から天気が崩れて雨になるという予報もあり、映画を観て外に出たら雨だったりしたらイヤなので、「ま、家でのんびりしようか」ということにした。

 せっかくわたしが「休み」で一日家にいるというのに、ニェネントはずっとわたしのことを無視して和室にこもりっきりでいる。食事の時間が近くなればリヴィングに出てきて、わたしがごはんを出してあげるのを待つだけである。これではわたしとニェネントがいっしょに暮している意味がないではないか、とか思う。なんという悲しいことだろう。
 午後のあいだ、ニェネントはキャットタワーの上からずっと窓の外を眺めているばかりだ。「世界がどんな風に変化していくのか」、ウォッチしているのだろうか。意外と哲学者なのだ。

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 それでも夜になってわたしがベッドで寝ると、今でもベッドの上に跳び乗ってきて、わたしと「危険な濃厚接触」をする。この、わずか10分間ぐらいの時間だけが、わたしとニェネントのすべてのリレーションシップなのだろうか。

 昼間、ネットで先日までの大阪の「文楽劇場」での公演が配信されていることを思い出し、「それは観なければ」とアクセスしてみたのだが、閲覧料で3千円ぐらいかかるわけで、わたしにとってはそういう「閲覧料」の金額よりも、それを支払うためのクレカを持っていないわけだから観られない。残念である。
 それで「そういえば」と、今はDumb Typeの"S/N"もまた配信されていることを思い出した。わたしはてっきり、コレは5月1日からだと思っていたのだが、それは別のトーク・イヴェントだかのことで、本公演の映像はもう観ることが出来るのだった。こっちは予約さえしてあれば完全に「無料」なので、わたしにもOKである。
 ということで、午後からはこの公演のネット配信を観た。

 今夜は雨になっても、明日はいい天気になるらしく、わたしは予約してある表参道の美術館へ行くつもりだ。明後日には映画でも観に行こうか、それとも東京の下町を散策してみようか。それは天候次第である。

 先日のニュースで、東京オリンピックパラリンピック組織委員会日本看護協会に対し、大会期間中の医療人員として看護師500人の確保を依頼したということだった。これは現状でもCOVID-19禍の下で医療体制がひっ迫している中、「今の患者は放置しても<東京オリパラ>に協力してほしい」ということでもあり(ましてや、<東京オリパラ>絡みだと「無休ボランティア」で協力してくれ、ということにもなるだろう)、強烈な<反撥>を呼んでいる(わたしも「#看護師の五輪派遣は困ります」というタグに1票投じたが)。
 この日、ついに東京での「新規感染者」は千人を超えてしまった。政府にせよ東京都にせよ、何らの方策も取らずに(ワクチン接種は大幅に遅延したままである)なりゆきを傍観しているだけで、こ~んな状態ではただ新規感染者は増加するばかり。それで政府も東京都も「あんたら、こらえてくれよ!」というばかりではもううんざりである。これはおそらくは戦時下、例えば空襲激化の下、防空頭巾と精神論で乗り越えようと言われたときみたいなものだろう。しかも、政府も東京都もこ~んな状態でも<東京オリパラ>はやるのだという。もうこの段階ではほとんど<狂気>であろう。
 わたしだって「自分の身は守りたい」という思いはあって「Stay Home」を(気もちとしては)1年以上つづけてきたが、このところ毎日書いているように、もう政府にも東京都にも<協力>しない。自分の身は自分で守る。それはスカ首相のいう「自助」につながることかもしれないけれども、そういうことではなく、政府や東京都の<要請>に逆らい、都県境を越えて動き回ろうと思っているし、映画だって舞台だって展覧会だって観に行くのだ(酒だって飲むぜ!)。
 

2021-04-28(Wed)

 朝、駅へと歩いていて、期待したように月の姿が見えた。今日は「手ブレ」はしなかったけれども、ちょびっと画面が傾いてしまった。

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 今、月が沈んでいくのは西の方角だけれども、ぐるっと振り返って東の空を見ると、これからもうすぐ「日の出」という、うっすらとした朝焼けが見られる。先月の今ごろは、まだ真っ暗な中でこのあたりを歩いていたというのがウソっぽい。

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 仕事を終えて帰るとき、わたしは駅へ向かうのに駅のそばの商業ビルを突き抜けているのだけれども、その商業ビルの中の店舗がズラリと休業している。しかし、そんな中で食料品を売るスーパーは今も営業している。わたしは毎日この商業ビルの中を歩いているから思うのだが、いちばん人混みが激しいのはスーパーの中で、今休業している店舗なんて、歩いている人の混雑状況と変わるものではない、というか、そこで「濃厚接触」になるような状況は考えられない。

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 いくら「食料品は生活に欠かせない」からといってスーパーは営業をつづけ、まったく混み合ってもいなかった店舗が休業を要請されて休んでしまうというのは、やはり「理不尽」ではないかと思う。
 昨日、都内の四ヶ所の「寄席」はこの「緊急事態」期間中も興行をつづけると聞いていたのだが、これがつまりは東京都からクレームが入り、表面上は「申し入れ」ということでやはり「休業」することになったという。

 だいたい今回の東京都などで実施される「緊急事態宣言」、わずか2週間ちょっとほどのことで、これは誰だって「ぜ~~~~~ったいにその効果はないだろう」とは思うわけで、もしもこの「緊急事態宣言」を「グッドな対策だ」と思う人がいるとしたら、ちょっとその思考回路に問題があるのではないかと思ってしまう。
 このようなかたちで、「補償」もほとんどないままに「休業」に追い込まれてしまう業者らは、その理不尽な怒りをどこに向けろというのだろう。今はみ~んな、COVID-19感染対策を必死で実行しているのだ。

 そもそも、「有効」だとされるワクチン接種の国内でのここまでの遅延は、こっちの方こそ「COVID-19禍」以上のディザスターであり(まあわたしは「どうせ」とは思っていたが)、このことでもスカ首相はもっともっと国民に頭を深~く下げて謝罪しなければならないだろう。

 わたしは先日書いたように、スカ首相や小池都知事の「言いなり」にはならないつもりだし、<東京オリパラ>の開催にも大反対である。それで「反抗」の気もちもあって、明日からの連休にもいろいろと「お出かけ」しようと思っているのだが、ココにはその名前は書かないが都内で開館している(ほとんど唯一の)美術館を見つけて、今やっている展覧会も観たい種類の展覧会ではあったし、予約を入れた。
 あとは昨日書いたように「浅草橋」あたりを散策してみたいと思っているし、映画だって観てやりたい。
 都内の映画館はだいたい閉館されていて、開館している映画館でも「観たい映画」を上映しているわけでもなくって「ダメか~」とは思っていたのだけれども、調べるとウチから4つぐらい先の駅の近く(といっても歩いて20分ぐらいというが)に、けっこう大きなシネコンがあることがわかった。「都内」ではないから開館している。このシネコン、知らなかったが、2年ほど前に新しくオープンしたスポットらしい。先日のアメリカのアカデミー賞で作品賞とか監督賞とか受賞して話題の『ノマドランド』もやっているし、けっこう「観たいな~」と思っていた『シン・エヴァンゲリオン』もやっている。まあ都県境を越境して東京で映画を観たいとは思っていたけれども、これだけ近いところにシネコンがあるとは知らなかったし、どんなところだかまずは行ってみよう。
 これで、この連休(けっこう天気が悪いらしい)のスケジュールも決まりだろうか。
 

2021-04-27(Tue)

 今週になって気温が少し下がり、昨日今日とまたパーカーを着て仕事に出た。気温の上がる昼になって帰宅するときも、パーカーを着ていてそこまでに暑いということもない。

 早朝家を出て駅に向かい、もう駅が見えてきたときに駅の左、建物のあいだに丸いオレンジの月が見えた。もう建物の影に沈んで行こうとするところ。「ここで写真を撮らなければ」とカメラを向けたのだが、ちょっと手ブレしてしまって残念。いちおう新しいデジカメにはけっこう優れた「手ブレ補正機能」がついていて、今では写真撮るときにまるで「手ブレ」のことには無頓着だったのだけれども、意外とダメなときもあるのだった。1枚だけではなく、モードを変えて複数枚撮っておけばよかったか。

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 あとで知ったが、今夜は満月になるのだという。こうやって今朝地平から沈んで行った月が、ぐるりと地球を廻ってまた夕方に東の空にあがってくるときは、地球の裏に隠れていたあいだにすっかりパンパンに肥満して、まんまるになってくるわけか。
 この4月の満月は、「Pink Moon」と名付けられているという。「Pink Moon」といえば、わたしの大好きなNick Drakeの遺した3枚のアルバムの、ラストのアルバムのタイトルではないか(もちろん、アルバムのタイトルだけではなく、同タイトルの曲もある)。そう思うとがぜん愛着もわき、今夕に曇らずに月が見ることが出来るといいと思うのだった。

 午後の4時頃に部屋から外に出て空を見上げてみたのだけれども、どうも空は薄い灰色の雲に覆われているようで、「今夜は月は見られないかな?」とは思って部屋に戻った。
 夕食を終えて、「寝る前にもういちど外の空を見ておこうか」と出てみたのだけれども、ちょっとウチの前を歩いていると、向かいの家の屋根の向こうの空が、明かりに照らされたようにオレンジ色に見えた。「あれって<月明り>ではないのか?」と屋根の向こうが見えるところまで歩いてみた。すると、オレンジ色の真ん丸い月が空に浮かんでいた。美しい。「これはいい写真が撮れるぞ」と部屋に戻ってカメラを手にまた外に出て、「写真撮るならココがいいだろう」という、すぐ近くの歩道橋の上にあがってみた。南東の空に、きれいに月が見られた。
 今回はこの朝の失敗を繰り返さないように、何枚も何枚も、撮影モードを変えて撮影してみた。「これがベストかな?」というのが下の一枚。

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 三脚など使わずに手持ちでの撮影だけれども、これだけズームして撮影してもまるで「手ブレ」していない。月のクレーター(うさぎ)もくっきり映っているし、うん、わたしはこの新しいカメラで、まずはこういう「月」の写真を撮りたかったのだ。いいカメラだ。とってもうれしい。もっともっとズームを効かすこともできるのだけれども、それで次回は「どこまでズームできるか?」というようなのを撮ってみようか。

 先日映画の『ハワーズ・エンド』を観て、ちょっと「これは脚色の失敗なのではないか?」と思ったこともあり、「今、この原作(E・M・フォースター)の翻訳は文庫本とかで入手できるのだろうか?」とふと思い、調べてみた(読みたい気もちはあるけれども、もし手軽に買えるとして買ったとしても、読むのは半年ぐらい先のことになりそうだ)。
 すると、文庫本では出ていないのだけれども、河出書房から出ている池澤夏樹氏の個人編集になる「世界文学全集」に吉田健一氏の翻訳で収録されていて、まあ手軽に入手できることがわかった。う~ん、わたしなどは「吉田健一:訳」というだけで読んでみたくなってしまうな。
 ところが、わたしが見たAmazonの「ユーザーレビュー」(つまり読者レビュー)では、その吉田健一氏の翻訳がいたるところ(実に多くのレビュー)でけちょんけちょんに貶されているのだ。そうか、そうなのか? わたしなどは吉田健一氏の訳であれば「名訳」に決まっていると思うわけだが、つまり皆さん、「海外文学は翻訳されたらすんなり日本語」ということを求めているわけなのだろう。
 わたしが今までに読んだ「吉田健一:訳」(例えばイーヴリン・ウォーとか、ウチにあるのでいえばパトリシア・ハイスミスとか)で考えれば、たしかに「日本語」としてつっかかるところはあるのだけれども、そここそが吉田健一氏の「名人芸」というか、「これは<海外文学>を日本語に移植したものなのだよ」という「翻訳者の意識」をも同時に翻訳したというものであり、単なる「翻訳屋」というものをはるかに超えた仕事をされているのである。
 まあ誰でもに、そんな「吉田健一氏の名人芸」をわかってもらうのは不可能だろうけれども、ちょっとこのAmazonの「ユーザーレビュー」はショックだった。それだけに、やっぱりその「吉田健一訳の『ハワーズ・エンド』」を、読んでみたくなってしまうのだった。

 さてわたしは、もうじき始まる連休をどう過ごそうかと考えているのだけれども、せっかく都県境を越境して東京に出て行ってやろうぜと考えても、たいていの美術館博物館は休館しているし、映画館も休館している。「ユーロスペース」だとか「シアター・イメージフォーラム」らの、わたしがよく足を運んだミニシアターは営業をつづけるようだけれども、残念ながら今上映している映画を観たいとは思わない。
 そうしたらちょうどネットの記事で、先日の新聞に「浅草橋を歩いてみよう」という特集が出ていたというのが紹介されていて、読んでみるとその浅草橋周辺、あれこれと歩いても面白そうだ。「東京の公園に行ってみようか」とも思っていたのだけれども、そんな公園も調べるとたいていは閉まっているようだった。それならば、「町を歩いてみる」というのはもともとわたしの好きなことでもあるし、上野や谷中界隈はいっぱい歩いたけれども、そういう隅田川沿いというのはほとんど歩いたことがない。「いいかも!」と思い、浅草橋界隈がわたしの「連休出歩き」の第一候補スポットにはなったのだった。
 

2021-04-26(Mon)

 またまた、機器の破損事故を起こしてしまった。今回はスマホである。落下させ、スマホ下部のガラスにかなりヒビが入ってしまった。さいわいにもヒビはだいたいがディスプレイから外れたずっと下の方に集中し、画面を見る分にもほぼ支障はないし、操作の上でも今のところ問題はない。しかし、このままの状態で使いつづけて大丈夫だろうか?
 まあ仕事中、手の空いたときにスマホを変なところに置いて見ていたわけで、「こんなことやってると落っことすな」と思っていたら本当に落っことしてしまった。不注意以外の何物でもないし、そもそも、仕事中にスマホを見ていたりしてはいけないのだ。

 今日は月曜日でもあり、仕事の帰りにまた駅の向こうのドラッグストアに買い物に行った。この日は、実に久しぶりに、何年ぶりかに「牛乳パック」を買った。
 むかしは週に1パックは買っていたのだけれども、いつ頃からか牛乳を飲むとお腹がゆるくなる状態がつづき、もう牛乳を飲むことをやめてしまったのだった(今はまた、牛乳を飲んでも大丈夫になっている気配はある)。今はコーヒーに入れるミルクは長持ちするポーションタイプのヤツが安価にあるし、料理に使うこともまずないのだ。
 しかし、先日勤め先で(賞味期限の切れた)乾パンを大量にもらってきたこともあり、乾パンというのはそれだけ食べても美味しいモノでもなく、こいつをたたきつぶしてミルクなどをまぜ、自家製クッキーにしてみようと考えていたわけで、まあ来週からは連休にもなるし、そんなときに「乾パンクッキー」をつくってみようと思っているわけである。
 あと、せっかく牛乳を買うのだから、これも久しぶりに「ホワイトシチュー」もつくってみようとも思っているのだ。「ホワイトシチュー」について、おおむかしに書いたことだけれども、また書いておきたいことがある。
 それは、スーパーに行けばそういう牛乳を混ぜてつくる「シチューのルー」が売られているわけだけれども、あの市販の「ルー」というヤツ、ただ出来上がりをドロドロにして素材の味を殺して不味くするだけのしろもので、わざわざ金を払ってせっかくの素材をぐちゃぐちゃにしてしまうというのが、わたしにはわけがわからないのである。ホワイトシチューなんて、牛乳とブイヨンと小麦粉があればおいしくつくれるのである。手間もほとんど変わらないというのに、なぜ「ルー」を使うのだろう? カレーの「ルー」とはちがうのだ。

 ドラッグストアの帰り、新しいカメラを入手して初めて「ふるさと公園」に寄ってみたのだけれども、どうもこのところ鳥たちの姿があまり見られなくなっていて残念。カモたちはすっかりいなくなってしまったし、オオバンもずいぶんと数が減った。シロサギの姿も見られなくなっているし、目を楽しませてくれるのは1羽でもスター性の高いコブハクチョウぐらいだろうか。この日は後ろ姿だけ。

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 あまりに被写体が少ないので、今日はふだん撮らないハトさんをアップで撮ってみた。ハトもかわいいのだが。

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 歩いていると木々の枝のあいだから鳥たちの鳴き声が聞こえてくるのだけれども、「どこかの枝に鳥がとまっているのだろう」と見上げてみても、その姿を見つけることはまるで出来ないのだった。

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 公園を出て帰り道、空き地にたくさんのピンクの花が咲いていた。「何という花だろう?」と思ったが、どうやら「マツバギク」という花らしい。「キク」という感じではないのだけれども。

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 もうじき連休になってしまうし、そろそろ調合薬も残り少なくなってきたので、内科医に行った。行く時間に失敗して、いちばん「待ち時間」の長い頃に行ってしまった。1時間以上かかり、帰るときにはいつものニェネントの夕食の時間をすぎていた。
 さすがに帰宅してドアを開けると、おそらくわたしの足音を聴きつけたのだろう、ニェネントがドア口まで出て来て「お出迎え」してくれているのだった。もちろん、「待ちくたびれたぜ! 早くメシをくれ!」ということなのだ。

 ネットのニュースを見ると、小池東京都知事が、「緊急事態発令」を受けた昨日など、東京の人たちが周辺県の商業施設、飲食店に流れているとの状況を受けて、「都県境は越えないでほしいと伝えている。しっかり守ってほしい」と苦言を呈したという。
 この発言にコメント欄は都知事批判コメントがあふれていて、すっごい数になっていた。大きな批判の論調は、「都民には都県境は越えないでというが、オリンピックで海外から国境を越えてくるのはいいのか」「不要不急の外出は控えてというが、<聖火リレー>こそいちばんの不要不急ではないのか」というようなものであり、まさにその通りだと思う。<東京オリパラ>は実施したいが<COVID-19>及びその変種ウィルスのまん延は抑えたいという、根本的な<矛盾>を政府も東京都も解決していないのだから、それは誰もが言うのだ。
 東京都はさまざまな興行施設に「緊急事態」中の休業要請を出しているのだが、都内の四ヶ所の「寄席」では、東京寄席組合や落語協会落語芸術協会が協議した結果、これを「社会生活の維持に必要なもの」として興行を継続するとしたという。「英断」というか、よくぞ決断してくれたという気もちである。都内のミニシアターで営業をつづけるシアターもけっこうあるらしいし、美術館・博物館でも閉めないところがあるという。もういいかげん、「無為無策」の政府や東京都の言いなりにはならないぞ、という心意気だろう。支援したい。
 わたしも昨日書いたように、自分なりにCOVID-19感染を避ける方策はこれからも取るけれども、その「自己防衛策」は、スカ内閣や小池都知事が言っていることとはまったく、全然に無関係である。そのことを実践するために、ほんとうは連休中は近郊の歩いて行けるところの公園とかに行こうかと思っていたのだけれども、こんなことになってみれば「わたしだって都県境を越境してやろう」という気もちになる。まあ映画とかを観ようという気はないが、今はどこか都内の開いている公園だとか、散策スポットとかに行ってみてやろうではないか、という考えになっている。わたしもまた、スカ首相や小池都知事の「言いなり」になる人間ではないつもりだ。