ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

2021-02-25(Thu)

 まだわたしが早朝に駅に歩く道は真っ暗だ。駅に近づいたとき、駅への歩道階段の向こうに、黄色い丸い明かりが見えた。さいしょは道路標識に何かのライトが当たって反射光が黄色く見えるのかと思ったけれど、それはもうじき地平線に沈んでいこうとする「月」なのだった。
 今は満月に向けて日ごとに丸くなっていく過程で、まだちょっと左上が欠けていていびつになっている。おそらくは明後日ぐらいには満月になるのだろうけれども、わたしが駅へと向かう今日のこの時間だと、もう地平線の下にいってしまって見えなくなっていることだろう(目覚めた頃、窓のカーテンのあいだからその満月が見えることだろう)。

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 デジカメの「夜景モード」で、意外にきれいに撮影ができた。これでもうちょっと露出を落とせば月のクレーター模様も映ることだろうに、その手順がなかなかうまくいかない。

 電車に乗って勤め先駅に到着して地上に出てみると、こんどは夜明け、日の出が近づいていて、空がうっすらと朝焼け色に染まっている。

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 今日も、昨日に引きつづいて気温が低く、まだまだ「冬」なのだ。空はずっと晴れていて陽射しもたっぷりなのだけれども、どこか空気が冷っぽい。仕事の帰りにいつもの跨線橋から南の方を見ると、奥行きを感じさせる雲の模様が見られた。こういう写真でみると、このあたりもずいぶんと「田舎」だなあ。

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 その跨線橋の手前、「野良ネコ通り」の入り口で、一羽のスズメぐらいの大きさの鳥を見た。スズメの羽根の色とちがうようだし、行動の仕方がスズメとちがう。わたしの知らない鳥だ。木に留まったところを近づいてカメラを構えたが、スズメならこのくらい近づけば逃げて行ってしまうだろうに、そのまま木に留まっていたので比較的きれいな写真が撮れた。

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 ウチに帰って写真をよく見たけれども、やはり知らない鳥。凛としたきれいな、かわいい鳥だと思った。画像検索をかけてみると、このコは「ジョウビタキ」の雌鳥らしかった。そこまでに珍しい鳥ではないけれども、わたしは初めてみる鳥だった。まあ意識しないですれ違ったことは何度もあったのだろうけれども、こうやって「ああ、この鳥はジョウビタキだ」などと知ることは、とても楽しいことだ。

 今日は3時ぐらいから内科クリニックへ行く。前回の血液検査の結果もあって酒の量をグ~ンと減らしたわけで、自分では「減らしましたよ!」というつもりで担当医に報告したのだけれども、どうやらまだまだ減らさないといけないらしい。つまり、一日の酒の「適量」は、ビールならば500ml缶を一缶、わたしが愛飲するところのウィスキーならば、60mlが適量だという。60mlというのはダブルで1杯ぐらいらしいのだが、わたしは水割りで2杯飲んだりするので100mlぐらいは飲んでるんじゃないかと思う(以前は4~5杯飲んでいたから、完全にアウト!)。まあ今はまったく酒を飲まない「休肝日」もつくっているし、飲まないときは水割り1杯でやめたりしてるからだいたいOKぢゃないかとは思うのだが、とにかくあとちょっとセーブすればいいのだ。

 夕食は納豆で軽くすませる。ウチのそばのスーパーでは納豆は3個で50円ぐらいだから、1食20円にもならない。たまごを入れたとしても、たまごは1個10円ぐらいだから30円。これに炊いた白米が(そんなにしないと思うが)一膳50円としてトータルで80円。低予算ですませる食事としては最優等生だろうし、整腸作用その他があって健康にもたいへんによろしい。しかし、ちょっとわびしい食卓だ。例のスカ首相長男が総務省の山田氏にごちそうしたのが「74203円」というから、これを納豆食の80円で割ると、900回ぐらいの納豆食ができる額である。一日3食すべて、その納豆食でやってのけると考えると300日。つまりほぼ1年分の納豆食の金額が、たった一夜で吹っ飛んでしまうのだ。ショックである。
 ところで、現在はスカ首相にベッタリくっついて「内閣広報官」をやっている山田真貴子氏だが、給与から70万円ほどを返上して「許してね」ということで、スカ首相も今後も彼女に「内閣広報官」を続けさせるという。まあ呆れてしまうことである。「悪いことしたから、そのときの十倍返すから<不問>にしてね!」とやったら、「うん、いいよ!もう忘れるから!」となるのだ。
 一方で、金がなくて万引きをして逮捕される高齢者の数が増加しているという。もう日本は今は「福祉国家」でも何でもないとは思うけれども、百年前の東南アジアやアフリカ諸国のような状態に近づいていないか?(毎回書くけど、わたしなんかほんのちょっと運がよかったもので路頭に迷っていないだけ)。
 

『世界動物発見史』ヘルベルト・ヴェント:著 小原秀雄・羽田節子・大羽更明:訳

世界動物発見史

世界動物発見史

 この本の原書はドイツで1956年に出版された本で、原題は「Auf Noahs Spuren(ノアの足跡をたどる)」というもので、日本ではまず1974年に『物語 世界動物史』のタイトルで刊行され、それが1988年に、この『世界動物発見史』と改題されて再刊行された(旧版の2冊本を合本して1冊にしたけれども内容はまったく同一で、版組、挿画もすべて同じである)。今回わたしが読んだのは1988年刊の方だけれども、まちがえて1974年刊の『物語 世界動物史』も買ってしまっている。それはそれでいいのだ。

 この本の面白さを、わたしはどうやって伝えればいいのか。いったい何がこの本の面白さなのか。それはただ、この本がわたしにフィットしたのだというしかないだろうか?

 そう、この本は「人類が世界をどのように認識してきたのか」ということをあらわした本でもあると思う。「世界」は、人類の前で常に動いていて、異なった表情をみせる。その「運動する世界」の中にひとつの「生命」というものを認識したときに、人類はどのようにその自分以外の、外の「生命」に対処したのか。一面でこの本はそういうことを記述した本ではあると思う。
 人類にとって、そんな外の「生命」とは、ひとつには「生命」というものを研究する対象ではあったし、一方では「征服すべき」対象でもあった。その人類の「両面性」が、この本のほとんどのページで読み取れるだろう。ある面で、人類が未知の生物、動物を発見するということは、その動物を撲滅することでもあった。これは人類というものがいかに野蛮で愚かな存在であったかという証(あかし)だとも思うのだけれども、一方で、「博物学」、「動物学」という科学的なアプローチから、地球上の生命を目録化してすべて網羅しようとする欲望もあった。

 このふたつのアプローチは相反するようにも思えるけれども、ところがつい19世紀までは、このアプローチは同じように「動物の虐殺」として結びついてもいたのだ。
 北洋の海にはかつて、「オオウミガラス」という飛ぶことのできない鳥が多数繁殖していたのだが、その肉が美味だったということからも、船乗りたちに虐殺されつづけることになる。19世紀の初めになって、そのオオウミガラスはわずかな地域にしか生存していなくなっていることがわかるのだが、そのときに世界の博物館は、そのオオウミガラスの標本を自分たちの博物館に所有するために、高額でオオウミガラス(の死体)を買い取ることを競って表明する。そのために、残り少なかったオオウミガラスは、一気に「絶滅」してしまったのである。今の世からすればあまりに「愚か」なことではあるけれども、それが19世紀までの「人類」の、世界への対峙法だったのだ。
 わたしはこの本を読む前に、ハヤカワ文庫の『地上から消えた動物』という本を読んだのだけれども、その『地上から消えた動物』に取り上げられた「絶滅動物」は、ほとんどすべてがこの『世界動物発見史』でも取り扱われている。つまり、「発見された」→「虐殺する」→「滅亡する」という経路をとるわけで、有名なドードー、そしてステラーカイギュウ、リョコウバト、先に書いたオオウミガラスなど皆そうだったし、アメリカバイソンも滅亡一歩手前で何とか救われた動物であった。これらは皆、つまりは「大航海時代」以降、新しい航路を求めたり新しい土地を探したヨーロッパの人々によって行われた「虐殺」ではあった。
 いや、それは条件はどんな動物でも同じで、特に新規に発見されて「滅亡」につながった動物に限らず、人類(ヨーロッパの人々)がその昔から見知っていた動物でも、虐殺され滅亡した動物もいるのではないかという問いも出てくるだろうけれども、例えば過去の書物や絵画などで登場する動物で、現在はもうその姿が見られない動物というのはほとんどいないようだ。ただ、今ではアフリカのみに見られる動物がかつてはヨーロッパにも棲息していた、という例はいろいろとあるようだけれども。

 やはりこの「虐殺」の歴史に力あったのは、そうやって航海に乗り出すようになったヨーロッパ人は、皆が手軽に銃などの殺りく武器を持っていたということが大きいだろう。もちろん、ドードーオオウミガラスのように「逃げない」動物は、銃を使うまでもなく「撲殺」で事足りたわけだ。そして、船で新しい土地に降り立ったのは人間だけではなく、ネズミやネコ、イヌなども、例えばドードーの卵を食用にして絶滅に力を貸すわけだった。
 ではなぜ人は、新しく目にした「それまで見たことのない」動物を虐殺し続けたのか、ということだけれども、ひとつには19世紀ぐらいまでの人々はほとんど、「ある動物が滅亡してこの世界に一匹も生存しなくなる」ということを想像できなかったらしい。そしてひとつの種が滅亡してしまうということの重大さに、まるで思いを馳せなかったようだ。
 新しく発見された動物は、ステラーカイギュウやオオウミガラスのように「航海の食糧」として殺りくされたケースもあるけれども、どうやらほとんどの場合、ただ「ハンティング」の的として殺りくされている。ドードーなどはただ「面白半分に」殺されまくったみたいだし、北アメリカに何億羽といたというリョコウバトは、いいハンティングの対象にされたようだ。同じ北アメリカで「絶滅一歩手前」に追い込まれたアメリカバイソンなどは、ただ開拓民が敵対していた先住民(インディアン)の主食がアメリカバイソンだったことから、先住民を飢えさせるためにだけ、バイソンを殺りくしまくったのである。
 もうひとつ恐ろしい例があって、発見されたオーストラリア大陸に移住した人々は、大陸に棲息していた動物らはすべて、自分たちの開拓のじゃまになる「害獣」だとして、徹底して殺しまくったのである。それも、動物たちの水飲み場に青酸カリを撒くなど、信じられないことをやっている。これは統計が残っていて、1906年の一年間だけで、20万頭のコアラ、25万頭のカンガルー、300万頭のクスクスが虐殺されている。移住者はコアラもカンガルーもクスクスも、みんな滅ぼしてしまおうとしていたのだ。

 では「動物学者」らはどうしていたのかというと、これまた、「新しい種」を発見するということは、まずその動物を殺して「標本」を得ることから始まったのだった。まあカメラなどのない時代だから、「証拠」というのはその動物の「死体」しかなかったわけだから、殺すのだ。この時代の「動物学者」とは、同時に「探検家」であり、「ハンター」でもあったのだ。

 しかし、ようやく20世紀になって、学者らもその考えをだんだんに変え始める。その転換点をあらわすような逸話が残っていて、20世紀の初めに学者らはアフリカ(リベリア)に「コビトカバ」がいるだろうと探索するのだが(かつていたことはわかっていた)、どうしても発見できず、「もう絶滅したのだろう」という考えが大勢を占めるようになった。そのときにションブルクという探検家・ハンターが、「いや、きっとコビトカバはまだ存在する」と、捜索に行く。1911年、ションブルクはアフリカの原生林の奥に分け入り、ついに自分の目の前で、まさに「コビトカバ」が木陰から川辺に歩いているのを目にしたのだった。
 後年、ションブルクはそのときのことを回想して語る。

私がこの動物を殺すのはどんなに簡単なことだったろう。この動物は川に入る前、観察している私と同じようにまたたきもせず長い間私を見つめていたのだから。だが、何かが私をおさえていた。

 ションブルクは、これだけ探索が困難だった動物であるからには、アフリカで最も数の少ない動物の一つだろうと推測した。ションブルクは、そのとき自分の目の前にいたコビトカバが、ひょっとしたらその種の最後の一匹かもしれず、その個体を殺すことでこの種を滅亡させたくなかったのだ。

私は、この幸運をもたらしてくれた動物を傷つけたくはなかった。死んだコビトカバに用はない。私はこの動物がこの国に今も生きていると信じてやってきたのだ。存在しないかもしれぬ動物を探しているという言葉にもう耳を貸す必要になくなった。

 しかし、原生林から戻ったションブルクを待っていたのは「賛美」ではなく、「冷笑」だった。ハンターであるションブルクが、探していたコビトカバを目前にして、それを撃たなかったなどということは誰にも信じられることではなかったのだ。
 その後も探索を続けたションブルクは、コビトカバがそれほど稀少ではなくそれなりの数が見られることを確認し、1913年に川岸の洞穴で見つけた個体を殺し、皮をはいで保存した。彼はそのときのことを書いている。

私はテントに駆けこんだ。そして残酷な猛獣狩りの私が涙を流したのだ。滑稽ではないか。しかし、張りつめた神経がみずからの権利を要求したのである。私はこの日をいかに待ち望んでいたことか。私はこの日のためにこそ一年間苦闘し努力してきたのだ。だが、今の私には何の喜びもない。ただただ私の言葉を信じなかった人々に勝ったというつらい勝利感を感じるだけだ。

 ついついションブルクとコビトカバのことを長く書いてしまったけれども、つまりここに来てはじめて、「見つけた新種動物を安易に殺してはならない」という意識が芽生えたのだろう。そしてこの本を読むことは、「絶滅危惧種」のことを考えることにも結びつくのだった。そして他にも、この『世界動物発見史』という本にはそのような新種を発見した「探検家」の面白い話に満ち満ちていた。

 わたしはこの本を読み終えるのに異様に時間がかかってしまったのだけれども、それはこの本を読みながらネット(Wikipedia)でその動物のことを検索して読み、また、その「探検家」、そして「動物学者」のこともまた、ときどき「この人は」というときに検索してみたのだった。けっこう多くの人がWikipediaに項目を持っていたのだけれども、本だけでは知り得ないことを調べて知るのも、また楽しいことだった。18世紀とか19世紀の探検家はやはりデンジャラスな生き方を選んでいるわけで、複数の動物を発見していろいろと活躍していた探検家のことを調べてみると、意外とわずか30歳ぐらいで命を落としたりされていたりする。

 この書物は、そんな「動物」のことが書かれただけの本ではなく、「冒険・探検」の本でもあり、「博物誌」の本でもある。書物内に多数引用された美術作品をながめることも楽しく、そこには以外にも北斎の作品が多数掲載されていたりして、この本の中でいちばんたくさん作品が掲載されている画家は、おそらく葛飾北斎ではないかと思われる。

 あまりに楽しい本、まだまだいろんな角度からのアプローチから、書いてみたいことが山ほどあるのだけれども、けっこう長くなってしまったので、とりあえずはこのくらいにしておきましょう。
 

2021-02-24(Wed)

 今日は、あたたかかった昨日までに比べるとガクンと気温が下がるという予報。たしかに朝起きたときにけっこう寒い思いをした。先週末から一昨日と、セーターを着ないで出勤したのだけれども、さすがに今日はセーターを着て仕事に出た。
 でも、今年の冬は、去年の秋に買ったパーカーで乗り切れた(まあだいたい今年の冬も終わったと考えていいだろう)。去年までよく着ていたダウンジャケットもオーバーコートも、まるで着ることはなかった。まあ「COVID-19禍」で出かけることが少なくなったということもあるだろうけれども、それでも早朝、まだ暗い厳寒の中を出勤するときもそういう新しいパーカーという服装で、そこまでに寒いという思いもしなかった。これは「防寒着」としての、買ったパーカーの威力だったろうか。これで今持っている冬用の防寒着がけっこう不要になった気がする。このパーカーは春秋も着れそうだから、持っているジャケットも不要になるかもしれない。それはいいことだ。デザインも好きだし、いい買い物だった(さいしょっからポケットに小さな穴があいてたけど)。
 いっしょに買ったセーターも、買ったときは「失敗だったかな」とは思っていたのだけれども、オーソドックスなデザインながら安っぽくもなく、この冬は着る機会が多かった。こちらも買い物成功だったか。
 この冬はもう一着、Amazonで中国製の黒のタートルネックセーターも買ったのだけれども、これもめっちゃ安かったし、値段を考えれば大きな不満もない。衣料品の買い物ではうまく行った冬だったか。

 昨日ふと、市からの市民税の納税通知でまだ払い忘れてるのがあるような気がして、そういう書類をぶっこんである棚をチェックしてみたら、市民税の第4期分を払い忘れていて、しっかり払い込み用紙が残っていた。それで納期限は2月1日なのだった。
 前から「口座振替」にしておこうとは思っていたのを、めんどうなのでそのままにしてあったのがこういうミステイクにつながる。とにかくは納期限を過ぎているのでコンビニでの払い込みは出来なくて、市役所か銀行の窓口に行かないとならない。それは市役所に行くより最寄りの銀行の方がたやすいわけで、今日の仕事の帰りに職場に近い銀行で払い込んだ。やはりコンビニとかで気軽に払い込めないのは、それだけで面倒だった(あとで延滞金の請求が来る可能性もある)。
 今年の分はこれで全部払ったはず。次に来年になって納税通知書が届いたら、こんどこそ口座振替の手続きをしたい。

 日曜日にキャベツをひと玉買ってあったのを、今日は夕食に使おうと考える。キャベツの外側にはすっかり緑の濃くなっている葉が何重かにかぶさっていて、こういうのは普通は料理向きではないので捨ててしまうのだけれども、「この青い葉っぱも料理してみよう」と思い、「スープとかにすればイケるのではないか」と思いついてレシピを検索したら、「キャベツと卵のスープ」っつうのが見つかり、「コレにしよう」と決める。これは副菜だから、「本菜にもキャベツを」と思う。実は先日、生食用の「ソフトいかスライス」というのが安かったので買ってあったのだけれども、そのまま食べてもちっとも美味しくはなかった。そいつをキャベツと炒めたりしたらいいんじゃないかとレシピを探し、ちょうど残っていたもやしをプラスして使って、「イカのスタミナマヨネーズ炒め」というのをつくれることがわかった。
 どちらもけっこうかんたんに完成。特に「キャベツと卵のスープ」は美味で、またやってみたいと思った。今日は普通なら捨ててしまうような食材を使い、食品ロスを防ぐ「地球にやさしい」献立になった(ひとこと言っておけば、わたしはもともと「食品ロス」をほとんど出さない「優等生」ではあるのだ ~「自画自賛」ではあるけれども~)。

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 夜、ようやっとのことで、ずっと読んでいた『世界動物発見史』を読み終えた。実に面白くも楽しい読書だった。読み終えてしまったことが残念で、またすぐにさいしょっから読み直したい気分である。この本は単に「動物」の本ではなく、まさに「博物誌」、「博物史」の本でもあった。わたしの中では「生涯ベスト3」に入る本ではあっただろう。

 今の報道は、例のスカ首相の長男が民間映像関連会社の「部長」として、総務省役員との接待会食を繰り返していた問題が燃え上がっている。さらに今、げんざいスカ首相の直属の「内閣広報官」である山田真貴子氏もまた、当時総務審議官だった頃にスカ首相長男の接待を受け、その会食で何と一回で「74203円」ものごちそうになっていたということも明らかになったのである。
 わたしはこの日記で毎月の支出決算の概要も書いていて、だいたい毎月一ヶ月の食費はトータルで2万円台前半、去年の12月はちょっと多くって2万8千円ぐらいだったよ、と書いているのだが、この人たちはアレだね、一晩でわたしの三ヶ月分の金をつぎ込んで食事をして、しかもその会計を持ってもらったりしているのだよね。
 こういう話を聞くと、「オレはいったい何で、キャベツの外側の青い葉っぱでスープをつくったりしてるんだろう?」とは思ってしまう。最近はよく「上級国民」などという言葉を聞き、つまりは今のスカ内閣はキャッチフレーズとして「国民のために働く内閣」などと宣わりたまっておられるのだけれども、やはりその「国民」とは一部の「上級国民」のことで、わたしなどのような下層民は決してその中に含まれることはないのだと、実感することになる。わたしはこの報道を聞いて以来、頭の中で「74203円」ということばがリピートし続けている。
 まあそれだけですむ問題ではないのだけれども、「安倍政治を継承する」というスカ内閣の「根本姿勢」ということではあるだろう。
 

2021-02-23(Tue)

 今日は休日。夜中に目が覚めてしまい、時計を見ると3時ごろだったのでまた寝ようとしたのだけれども、枕元のカーテンのあいだ、窓の外の高い位置で明るい黄色い光が見えた。「ああ、また月が見えているのか」と思ってカーテンをめくって外の空をみると、まだまだ下半分が欠けている黄色い月が見えた。これが月末になると真ん丸になって、わたしが出勤準備で目覚めるころにまたカーテンのすき間から月光がさしこむようになるのだろう。

 だんだんと日中の気温が上がるようになってきて、この2~3日はすっかり春の陽気になった。わたしは冬のあいだ、毎日半分ずつ出してあげるニェネントのネコ缶の残りは冷蔵庫に入れず、冷蔵庫で冷たくなったごはんでは食べても味気ないだろうと外にそのまま出しておいてるのだけれども、暖かくなると外に出しっぱなしだと傷んでしまう。そろそろ冷蔵庫にしまっておく季節になるのかな(考えたら、レンジでちょっと温めてやって出してあげればいいのだが)。
 それでも明日からはまた寒くなるようで、スマホの天気予報をみると、金曜日には「雪ダルマ」マークがついていたりする。まだまだ「冬」は終わってはいないのだ。

 ニェネントはリヴィングの窓ぎわに置いてある、新しい「爪とぎ段ボール」の上でくつろいでいる。暖かくなると、ニェネントの「抜け毛」もすごいことになって、わたしの着る服までネコの毛だらけになってしまうのだ。そろそろそういう時期だ。

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 COVID-19のワクチン接種の件で、当初は「3週間ぐらい時期を置いて」2回接種するのだと言っていた政府自民党は、昨日になって「2回接種せずとも1回でいいのではないか」などと言いはじめたようだ。やはりわたしなどが思っていた通り、国民全体に行きわたるだけのワクチンの確保が難しくなってきたらしく、「1回でも効果あるんじゃないの?」ということらしい。
 しかし、ワクチン製造元のアメリカのファイザー社は、「2回打つ必要がある」としているのである。にもかかわらず「1回でいい」などというのは、つまりは医者から処方された薬を患者に仲介したヤツが、処方箋を守らずにじっさいの患者に提供するということである。そんなことが許されるわけがない。
 政府自民党は本心では、国民がCOVID-19に感染して発病しようが死んでしまおうがかまわないと思っているのではないだろうか。
 これも、とにかくはワクチン接種をはじめるということで、ムリヤリにも<東京オリパラ>を開催させようとしているのかと思ったのだけれども、この件でも、新しく五輪相に就任した丸川大臣は「ワクチン接種を前提としなくても安全安心な大会を開催できるよう、総合的な感染症対策の検討を進めている」などと言いはじめた。
 
 わたしなどは、「たしかに今はCOVID-19対策は<無為無策>だが、ワクチンが来たぜ!これでオリンピックが開催できる!」という論法で突っ走るつもりかと思っていたのだが、ワクチンのことは関係なく<東京オリパラ>は開催できるというのだ。それはつまり、「COVID-19対策は<無為無策>だが、<東京オリパラ>は開催するぜ!」ということなのだ。
 スカ総理は今まで、何度も何度も何度も何度も「コロナに打ち勝った証としてのオリンピック」と公言している(先日は「G7」の会議でもまた同じことを言っている)のだが、「打ち勝つ」ために何の手立ても打たないでいて、勝てるわけはないではないか。先日アメリカのバイデン大統領は「オリンピックの開催は<科学>に基づいて判断されなければならない」と語ったのだが、(このことは前にも書いたかもしれないが)この発言はいつまでも「精神論」ばかりでそういった論理的、科学的裏付けをまったく伴わないスカ総理の発言に向けて言われたものではないかと思う。
 スカ総理は、そのG7で各国首脳から自分の発言が賛同を得たと鼻高々のようだが、海外の首脳からすれば「そう言いたいのなら言わせておけ」ぐらいのものだろうし、別に親身にサポートするわけではない。結果として「中止」になっても、「そうか、残念だったね」と言うぐらいのものでしまないだろう。
 というか、スカ総理は今、民間企業の自分の長男と総務省との「接待問題」でズブズブになっている。昨日の国会中継でも立憲民主党の議員がこの件で追及をして、おどろくような話がいろいろと出てきたのだ。これは相当に大きな問題なのだけれども、また明日書こう。

 それで、夜寝る前にちょっとずつ読んできた『世界動物発見史』も、ようやく明日には読み終わりそうだ。そうすると次には『カモノハシの博物誌』が、読まれる順番を待っている。『世界動物発見史』も楽しい読書だったけれども、『カモノハシの博物誌』も楽しみでしょうがない。
 

2021-02-22(Mon)

 今日2月22日は、「にゃんにゃんにゃん」のネコの日。せっかくのそういう日なのだから、ニェネントくんにお祝いしてあげようかと思った。はたして、去年はニェネントくんに何かお祝いでもしてあげただろうか?とこの日記をみると、「ちゅーる」をあげただけだった。
 考えて、このところぜんぜんスペシャルな食事も出してあげてないし、久しぶりにお刺身でも買って帰ってあげようかと思い、「一割引きクーポン券」を持っているウチから二つ手前の駅前のスーパーに、仕事の帰りに立ち寄った。このスーパーで今まで「お刺身」類を買ったことがなかったけれども、ちょうどセール期間だったのか、けっこうな量の「刺身の盛り合わせ」が500円で売られていた。まぐろとサーモンとかんぱちとで、美味しそう。他にまたチョコレートとかスナックとか買って帰宅。

 買った「お刺身」はけっきょく、ほとんどがわたしの昼食のおかずになったわけだけれども、けっこう美味しい刺身だった。ウチの近くのスーパーの刺身よりはずっと美味。それにやたら刺身のツマが山盛りになってないところもいい。もちろん、ニェネントくんにも分けてあげる(ほんとうはニェネントくんが主役で、わたしが「おすそ分け」してもらうはずなのだが)。

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 読んでいたジョイスの『ユリシーズ』の第2巻を、ようやく読み終えた。読んだ感想を書くのは全部読了してから。しかし第1巻とちがって、素直に読みくだせない文章の連続にはなるし、登場人物も何十人にもなって、そんな人物が後の章で再登場すると「あれ?この人誰だっけ?」という状態になってしまう。はっきり言って「わからないところはわからないままに」読み進めてしまったので、このツケはこれ以降も重なってきてしまうだろう。ほんとうはまた再読したいところだけれども、今すぐにはムリだろう。
 この第2巻の巻末に、翻訳者の一人の永川玲二氏による解説「ダブリン気質」が掲載されていたのだけれども、「解説」というよりはこれは「アイルランド史」という読み物で、わたし自身アイルランドについてはほとんど何も知らなかったので、ずいぶんと教わることが大きかった。わたしは英国の伝承音楽を聴くことが多く、その過程でアイルランドの伝承音楽もそれなりに聴いていたわけだけれども、そんな音楽の背景も知ることができた(今までそういう「学習」をしなかったというのは、いくら何でも「怠惰」だが)。
 そうしたら、夕方になって土曜日に注文してあった『ジェイムズ・ジョイス伝』の1と2が届いた。ずいぶんと早かった。

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 わたしはAmazonマーケットプレイスでこの本を買って、2冊で送料ともで4千円ぐらいだったのだけれども、届いた本(帯は付いてるしけっこう美本)をよくみると、定価は8千円とか9千円とかするのだった。2冊で、今の消費税で計算すると1万9千円ぐらいになってしまう。注文するときはそもそもの価格など考えなかったのだけれども、今さらに「ひゃ~、ずいぶんと高い本だったのだな~!」とおどろいた。わが家にある本でも、トップクラスの高額書籍である。
 しかし、本としての大きさ、ボリュームもかなりのものだから、通勤電車では読めないか。そうするとやはりウチで寝るときに読むことになり、また時間がかかることになるのだろう。やはり、ウチで寝る前にしか読書しないという今の習慣を、しっかり変えないといけないと思う。
 

『ムーンライト』(2016) バリー・ジェンキンス:脚本・監督

 ひとりのアフリカ系男性の、少年期、青年期、成人期を、三部構成で追ったドラマ。舞台はマイアミらしいのだが、成人期には主人公はアトランタに移っていて、ある人物に会うためにまたマイアミに戻って来る。

 第1部(Little):主人公のシャロンは母子家庭育ちで裕福な家庭ではなく、母親はドラッグ中毒で売春もやっているようだ。内向的でおとなしいシャロンはいじめっ子らから「オカマ」と呼ばれ、追い回される。追われたシャロンが町はずれの廃墟に隠れていると、その廃墟にブツを隠していた麻薬売人のフアンがやってきてシャロンを見つける。フアンは心を開かないシャロンのことを心配し、テレサと暮らす自宅へ連れて行く。
 父親のいないシャロンはだんだんにフアンに心を開き、フアンは父親代わりの役を引き受けるようになるのだが、シャロンはけっきょくフアンが自分の母に麻薬を売っていることを知る。

 第2部(Sharon):シャロンはハイスクールに通うようになっている。彼が心を開けるのは少年時代からの友だちのケヴィンだけで(フアンはこの第2部までのあいだに亡くなってしまっている)、やはりクラスの悪ガキにいじめられている。母親はやはり麻薬中毒で売春を続け、シャノンとの関係は険悪である。
 ある夜、ケヴィンはシャロンを訪ね、ビーチのそばに行って話す二人はキスを交わし、ケヴィンの手はシャロン股間にのびる。
 悪ガキのいじめはエスカレートし、ケヴィンにシャロンを思い切り殴るように命令する。逆らえないケヴィンはシャロンを殴るが、ケヴィンが「そのまま倒れていろ」というのを無視してシャロンは何度も立ち上がり、ケヴィンは仕方なしに彼を殴り続ける。
 事件を知ったソーシャル・ワーカーがシャロンに子細を語るように言うが、シャロンは沈黙する。翌朝、シャロンは悪ガキの主導格の男の背後から椅子で殴り掛かり、彼を倒す。シャロンは逮捕されてパトカーに乗せられるが、その姿を見ていたケヴィンと目を合わせるのだった。

 第3部(Black):成人したシャロンは、アトランタでまるでフアンのような売人となっている。母は薬物中毒で施設に入っていて、シャロンに「帰ってきてほしい」と電話がある。
 ある夜、不意にケヴィンから電話があり、「自分はマイアミでレストランをやっているから訪ねてきて欲しい」と言われる。例の事件でシャロンは施設に入所させられて、それ以来ケヴィンとは会っていない。
 シャロンはマイアミに行き、まずは施設の母親と面会する。落ち着いた母親は、「もうずっと施設にいたい」と語る。
 そしてその夜、シャロンはケヴィンのレストランを訪ねるのだった。

 映画はタレル・アルヴィン・マクレイニーという人物が2003年に執筆した戯曲「In Moonlight Black Boys Look Blue」を基にし、監督のバリー・ジェンキンスはその中から三つのパートを抜き出して脚本を書いたという。その戯曲のタイトルの「月の光の下では、黒人の少年は青く見える」というのは映画の中のセリフで出てくるし、それは印象的なラストショットにも生かされている。
 黒人でありLGBTであり、しかも母子家庭、薬物中毒、貧困などの要素も抱え持つ主人公のストーリーは、しかしそこまで悲惨な面を強調されて描かれるわけではなく、繊細な演出、彩度を上げた画面の美しさもあって、深い感動をもたらすものだった。ちなみに、ケヴィンはその後結婚の経験もあり子どももいて、今は離婚しているとはいえ、バイセクシュアルなのだろうけれども、シャロンはケヴィン以外の人間に「触れたこともない」と語っている。
 特に第1部に登場するフアン(演じたのはマハーシャラ・アリで、この作品の演技でアカデミー助演男優賞を獲ている)のシャロンに注ぐ慈愛が印象的で、何といってもそのフアンが海でシャロンに教えるシーンのすばらしさ。わたしはこのシーンに、ユージン・スミスが写真集『水俣』で母親が水俣病の子どもを風呂に入れてやっている美しい写真を思い出した。美しいシーンだった。
 この映画ではそうやって、「海」というものがそれぞれのパートで重要な、印象的なあらわれ方をする。

 映画の流れを考える上で、第1部と第2部とのあいだの空白、第2部と第3部との空白が重い意味を持っていたと思う。
 まずは第1部と第2部とのあいだでは、いつしかあのフアンは亡くなってしまっている。ほとんどシャロンの父性として関わったフアンの死で、シャロンはどう変化したのだろうか。また、シャロンはフアンから何を教わり、何を受け取ったのだろうか。
 そして第2部と第3部との乖離。第3部でとつぜんにシャロンは筋骨隆々とした「ブラザー」のような容姿であらわれ、その容姿はかつてのフアンを強く想起させられる(フアンと同じピアスをし、同じキャップまでかぶるシーンもある)。セリフでシャロンは、第2部終わりに逮捕させられたあとに更生施設に入所させられ、そこで自分の生き方を根本から変えることに決めたという。施設で知り合った麻薬の売人から出所後に売人になり、そこからのし上がったと語る。おそらくは身体改造も相当にやったわけだろう。そしてつまり、フアンの生き方をなぞったのだろうか。そういう、「描かれなかったこと」が、この映画に深い奥行きを与えていただろう。

 やはりわたしにグッときたのは、シャロンがケヴィンのレストランを訪れてからの、レストラン内での濃厚で繊細な演出で、ここでの二人の切り返しやカメラ位置の移動など、ただ引き込まれる演出で、これがラストのケヴィンの家へと引き継がれて行く。

 あとは「音楽」の素晴らしさもあって、要所要所で聴こえてくる美しいオリジナルの弦楽曲(作曲はニコラス・ブリテルという人)。そしてドライヴするシャロンの車の映像のバックで聴かれる、カエターノ・ヴェローゾの「ククルクク・パロマ」が心に残った。

 音楽はもう一つ、ケヴィンがレストランのジュークボックスで客がかけた曲を聴いてシャロンに会いたいと思ったという、その曲。
 この曲はバーバラ・ルイスの「Hello Stranger」という曲で、実はわたしはこの曲をよく知っていて、そのイントロが聴こえてきただけで「あ、あの曲だ」とはわかったのだった。しかし、気になって調べてみると、この曲がアメリカでヒットしたのは1963年のことで、それはわたしが「同時代」的に聴いていたことはあり得ない。おそらくはそのあとに偶然ラジオとかでかかっていたのをエアチェックしていて、それを聴いて記憶していたのだろう。
 この曲の、「It seems like a mighty long time」というフレーズが、映画の内容と合わせて心に沁みるのだった。

2021-02-21(Sun)

 朝起きて食事をして、「今日は朝の早いうちに映画を観てやろう」と思い、6時ぐらいから「GYAO!」で無料配信されている『ムーンライト』を観た。早い時間に映画とか観ると、なんだか時間を得したような気分になるが、ふだんはただダラダラと過ごしているからそう思うのだ。
 映画のあとはテレビで、「さわやか自然百景」をみる。この番組はけっこう毎週みているが、この朝は北海道の野付半島の冬に生活する動物たち。この半島はオホーツクの海に飛び出た「砂嘴(さし)」という地形で、人は住まない。ほとんどが平地で強い海風を受けるので、極寒の地だけれども雪があまり積もらないという。それで、いろいろな動物が草などの食物を取りに集まってくる。さらに、そんな動物を狙ってノスリやミミズクなどの鳥、そしてキタキツネなどもやってくるのだ。流氷に乗ってゴマフアザラシも流れてくる。15分の短い番組だけれども、毎週日曜日の朝のアクセントになる番組だ。

 つぎは、スーパーの開く時間を見計らって買い物に行く。日曜日はバナナ、そして肉まんは定番。今日はそれプラスもやしやキャベツ、ミックスナッツ、たまごなど。がんもどきが賞味期限が今日までで半額になっていたので、夕食は前につくってお手軽でおいしかった白菜との煮物にしようと、これも買う。

 帰宅して昼すぎまではダラダラ過ごすが、朝観た『ムーンライト』をもう一度観たくなり、最初からまた全部観た。
 今日はずっと映画を観たりテレビをみたりで、映画のあとはニュースとかをみて、そのあとは「世界遺産」という番組。この番組も毎週みている。今日はカナダのウッドバッファロー国立公園で、この広大な国立公園の土地は絶滅の危機にあったアメリカ・バッファローを保護するためにつくられたという。でもみていると、そんな雪原の中で群れをなしているバッファローたちを、オオカミの群れが襲うのである。逃げ遅れたバッファローをオオカミたちが仕留める映像。「バッファロー保護地なのにこういうことがあってもいいのか?」と思うわけだけれども、もうある程度バッファローの数も増加しているし、「自然の摂理」として許しているらしい。
 あと、湿地帯の川にビーバーがつくった「世界最長」のビーバー・ダム。全長850メートルもあるのだ。

 「世界遺産」をみたあとは、予定通りに「白菜とがんもの煮物」をつくって夕食。ちょっとつくりすぎたのを全部食べて、いささか満腹になってしまった。このところチョコレートとかの間食の量が増えているし、わたしもニェネントのように太るのではないかと思う。

 今日はテレビでそんな「自然」のドキュメンタリーばかりみる。つぎは「ダーウィンが来た!」で、たいていこの番組の時間はもうわたしはベッドに寝ているのだけれども、この日は「キノコ」の特集というので、「それはみたい」ということになった。まあいろいろなキノコがみられるだけでも楽しいのだけれども、キノコと粘菌の関係だとか、キノコと天候(雨)との関係など、面白い話が聞けた。
 こんな風に、日曜日はドキュメンタリー番組が並んでいて、わたしは一週間でこの日曜日だけ、毎週みるテレビ番組が決まっているのだ。

 わたしがテレビをみているあいだ、ニェネントはわたしの後ろで、洗濯したタオルを畳んだ上で丸くなって寝ている。最近このタオルの上が気に入っているようで、わたしがフッと自分の後ろをみると、いつもタオルの上でニェネントが丸くなっている。「じゃあしばらくはタオルは片づけないで、そこに置いたままにしてあげよう」ということにした。

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 そういえば、COVID-19のワクチン接種が日本でもちゃんと始まったらしい。ただ、その数はまだまだ少なく、まずは医療従事者からということ。とりあえず「約束通り」に接種を開始したぜ、というところで、これが普通の人たちの接種が順調に始まるのはまだまだ先のことになるだろう(まずは高齢者からだという)。
 だいたいスカ首相は目に見えるCOVID-19対策など何もやらずに「コロナに打ち勝つ」みたいな精神論を語るだけなのだが、その「コロナに打ち勝つ」ということの根拠とは、このワクチンのことらしい。つまりアメリカの製薬会社から取り寄せるだけのことで、こういうのは「政策」と呼べるものではないだろうし、「ワクチンが来ればもう<緊急事態宣言>なんか解除だぜ」みたいな、「ワクチンがあれば東京オリンピックパラリンピックだって開催するね」というような「脳天気さ」を感じる。けっきょく、スカ政権の政策でやったことなど何もないのではないか。このワクチンだって、あとになれば「実は〇〇〇億で買ったのだ」みたいな話も出てくることだろう。
 スカ首相は、映像プロダクション会社で部長をやっている首相の息子が総務省の幹部を接待して、費用はすべて映像会社が持っていたことが週刊誌に暴露され、総務省幹部は最初は「記憶にない」と逃げていたのだけれども、同じ週刊誌から録音された音声が出てきて、もう否定するわけにいかなくなっている。これは大きなスキャンダルに発展しそうだし、そもそも総務省幹部は相手が「首相の息子」であることから断ることも出来なかっただろうといわれ、まあいろいろあるのだが、首相の責任だって問われなければならないことだろう。
 総務省幹部2人は実質更迭されたようだけれども、首相の息子だってその映像会社を解雇されるべきではないのか。というか、若い頃にはミュージシャン志望だったのが途中入社でその映像会社に入社し、部長にまでなっていたというその「首相の息子」、その出世の背後には「菅義偉の息子だから」ということがはたらいていたのではないのか。そして、そのような「自分の父の威光」で仕事をすすめていたというのであれば、実のところ、じっさいにはオヤジと同様に「無能」なのではないのかとも思える。
 前のアベ首相のときは、その夫人がいろいろとメチャクチャやっていたのをアベ氏が隠し通していたわけだけれども、今度のスカ首相は自分の息子である。こういう、首相の身内が好き勝手やって、それを首相がかばいつづけるという事態、この国は親族優先の北朝鮮のような国になっていたのかと思ってしまうのである。