ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

2020-11-24(Tue)

 昨日書いた「謎の実」の正体がわかった。あれは「チョウセンアサガオ」の実、なのだった。このあたりにチョウセンアサガオの花が多く見られることは前に書いたことがあるけれども、その花が枯れたあとの「実」は見たことがなかったし、それがこんな形をしていたとは意外だった。

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 それで問題なのは、「チョウセンアサガオ」とは毒を持つ植物だということで、わたしもそのことは何となく知っていたけれども、この植物が別名「ダチュラ」として知られているということであれば、それはむか~し読んだ村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』に登場した強烈な幻覚剤なのだった。
 葉っぱを煎じて飲むだけでヤバいことになるらしく、酩酊状態になり妄想、幻覚を見るようになり、それが何日かつづくらしいのである。ネットを見ると、花のつぼみをオクラとまちがえて食べて意識障害を起こしたり、この根をゴボウとまちがえてヤバいことになったりという事例が出てくる。
 「そりゃあ大変だ」と、ニェネントがかじったりしないうちにゴミ袋に放り込んだのでした。

 さて今日でわたしの4連休も終わり、久しぶりの「仕事」になった。この4日間のあいだに日の出はそれなりに遅くなり、わたしが勤務地の駅で降りても外はすっかり暗くなってしまった(写真は「夜景モード」で撮ってしまったのでけっこう明るく写ったけれど、じっさいはほとんどまっ暗である)。

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 空は一日曇っていたし、気温もあまり上がらずに寒かった。こういう日にこそ、買ったパーカーを着ればよかったと思うのだった。
 「野良ネコ通り」には今日もネコたちの姿は見られなかったけれども、この道沿いに小さな畑があって、ここには9月の末にダイコンが種まきされていて、小さな芽がだんだんに伸びてきていたのをわたしもずっと見ていたのだけれども、そのダイコンが今日はすっかり大きくなって地面の上にはみ出してきているのが見られた。ダイコンというのは、ずいぶんと成長が早いのだなあと思った。もうそろそろ収穫の時なんだろう。

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 今日は「GYAO!」で、ケン・ローチ監督の『わたしは、ダニエル・ブレイク』を観た。評判になった映画だったけれども、非人間的なイギリスの社会保障制度を問題とすると同時に、人と人との結びつきの美しさを描いた作品だった。
 映画をとちゅうまで観たところでちょっとキッチンに立ったのだけれども、そのときにわたしの足もとにニェネントがやって来て、そこに置いてある器から水をなめ始めた。そのニェネントの姿をみたとき、観ていた映画のこともあって、「ニェネントが生まれてわたしといっしょに暮らすようになってから、どんだけニェネントがわたしの支えになってくれていることだろう」と思ってしまい、急に涙があふれてきてしまった。

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 ときどきわたしは、「わたしはいったい何のために茨城で暮らしたりしたんだろう」と思うこともあったのだけれども、それはもう、まちがいなくニェネントと出会うためのことだったと納得する。わたしは時々「運命論者」になってしまうのだけれども、つまりわたしはニェネントと出会う運命にあったわけで、そのために茨城に転居したのだ。ニェネントは(バカ面してるけれども)わたしを救済してくれて、それで今、わたしは生きているのだと思った。
 「ひとり暮らし」でも、ネコといっしょに暮らしている人は精神的にも肉体的にも「健康」なのだという。まあわたしはそこまで肉体的に「健康」でもないかもしれないが、これがニェネントがいなければいろいろともっと「あかんかった」かもしれないな。そう思う。
 ニェネントはわたしがいなければ生きていけないし、わたしもニェネントがいないと生きていけないだろう。そういうことだ。

 今日の夕食は簡素化して、目玉焼きとトマトのサラダですませた。先日駅のそばのスーパーで、「見切り品」としてトマトが激安で売られていたのだけれども、それはヘタのまわりが黒く変色していて売り物にならないトマトだったのだけれども、下半分はきれいだし、さわってもぐじゅぐじゅしていなかったから買って帰ったのだけれども、じっさいにヘタの周囲の黒いところを切り捨ててしまえばまったく健全というか、普通のトマトよりもおいしいぐらいのものだった。これからはトマトをいっぱい食べよう。
 

2020-11-23(Mon)

 買い物に出たとき、見たことのない木の実(果実?)が枝ごと落され、道ばたにうっちゃられているのを見た。

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 すっごい珍しそうな実だったので、3つほど家に持ち帰った。見た感じはトゲトゲがあって、ドリアンを小型にしたような感じだ。トゲは柔らかく、さわってもチクチクするわけでもない。ニェネントも、「コレは何?」と興味津々の様子だ。

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 写真を撮ってGoogleで画像検索かけてみると、いちばん似ているのは「パンノキ」ではないかという。いや~それはちがうんじゃないかなと思うが、もしも「パンノキ」だとしたら炒めて食べることができる。
 ではとりあえず切ってみようと、包丁で二つに割ってみると、おもしろいかたちでタネがいっぱい詰まっていた。いやこれはぜったいに「パンノキ」ではない。何なんだろう?

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 ‥‥けっきょく、「いったいコレは何なのか?」ということはわからずじまいになった。こういうのがわからないままだとものすごく気になる。この木が生えていた家に行って、「コレは何というものですか?」と聞いてみたくもなるのであった。でも、この件はこれでオシマイだ。

 世間的な3連休、わたしの場合の4連休も今日でオシマイだ。今朝はけっこう晴れていたのだけれども、午後に買い物に出たときには空はすっかり雲に覆われそうになっていた。

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 明日からまた仕事なので、いつもの日曜日のようにバナナとマウントレーニアなどを買うが、このスーパーはまたまた「肉まん」を勝手に値上げしていたので買うのをやめ、明日からはバーガーパンとかですませることにした(実はバーガーパンの方が高いのだが)。

 午後になって、安倍首相時代の「桜を見る会」前夜祭で、参加者から徴収した会費が会場となったホテルでの飲食費、会場代などと不均衡だった問題で、ついに東京地検特捜部が捜査を開始したという報道があった。当時安倍首相は国会で「何も問題はない」みたいな答弁をし、それを聞いた誰もが「あの一流ホテルで<会費5000円>でごちそう食べれるわけがないではないか」と思ったのだが、ようやっと「捜査」の手が入ったみたいだ。
 これは安倍元首相の「盟友」だった黒川元検事長が「賭けマージャン」で辞職をしてしまい、東京地検の職員に「邪魔なトップ」がいなくなったことがこの捜査開始につながったわけでもあるだろうけれども、誰が考えても安倍元首相は「犯罪」を犯している。東京地検はなんとか「起訴」に持ち込んでほしいものであるし、そのことがこの日本にまだ「三権分立」「民主主義」が機能していることの証にはなるだろう。
 また、安倍元首相にはもっと大きな問題、「森友学園問題」、「加計学園問題」への関与があるわけで、こちらは財務省職員だった赤木俊夫さんを自殺に追い込んだ「最悪」の問題でもある。この問題も早急に立件起訴を成していただきたいものである。
 言っておけば、安倍晋三という人物は、早急に「監獄」に入るべき人物ではあるだろう。そうしなければ、今の日本のこの「暗黒」は継続されるだろう。

 夕食は、先日「ナス」を買っておいたのを忘れていたので、またレシピを検索して、「ダイコンと豚バラの中華風炒め煮」というのにトライした(ナスも使うのだ)。先日「料理の極意は<放置>だぜ!」な~んて思ってしまったものだから、煮込みのときに目を離していたら煮詰まってしまって、「黒焦げ」一歩手前ということになってしまった。なんとかギリギリ黒焦げからは救い出し、それでも見かけは悪いけれどもおいしい味に仕上がった、と思う。料理に<放置>は有効だけれども、「ちゃんと見張ってないといけません」というのがこの日の教訓、だった。

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『ロリータ』(1962) ウラジーミル・ナボコフ:原作・脚本 スタンリー・キューブリック:監督

ロリータ [DVD]

ロリータ [DVD]

  • 発売日: 2010/04/21
  • メディア: DVD

 脚本はウラジーミル・ナボコフによるものとクレジットされ、じっさいにナボコフは半年間もかけて脚本を書いたというが、そのまま映画化すると7時間になっちゃうよということで「短縮版」に描き直した。この短縮版はのちにアメリカで出版されることになるけれども、キューブリックはそのナボコフの脚本の2割ほどしか使用せず、あとは自分で書いたということである(このことは、次に述べる「規制」に関連しての結果なのかもしれない)。かわいそうなナボコフ
 しかも当時のアメリカ映画協会の自主規制により、とにかく性的行為はもちろん、それを暗示する描写も規制の対象になっていた(男女がベッドで並んで寝るだけでアカンのだ)。おかげでロリータの設定年齢は引き上げられてしまったし、ハンバート・ハンバートとロリータとの関係はなんとも「純愛」風にみえるようになってしまった。キューブリックはのちに、「規制のことを知っていたら『ロリータ』は撮らなかっただろう」と言っていたらしい。
 そういう、ハンバート・ハンバートとロリータとを思ったように描けなかったからか、代わりにクレア・クィルティの出番が多くなり、クレアを演じたピーター・セラーズの「怪演」もあって(彼は原作に出て来ない、クレアの変装した「ゼンプ博士」としても登場する)映画にはコメディ色が強く感じられるようになった。
 キューブリックは俳優・ミュージシャンであったピーター・セラーズのレコードを聴いて彼をクレア・クィルティ役に抜擢し、多くのパートで即興の演技を求めたという。キューブリックはセラーズを気に入り、次作の『博士の異常な愛情』では彼を主役に迎え、しかも三つの役を与えたのだった。この『ロリータ』では、そんな『博士の異常な愛情』へのセラーズの「前哨戦」が観られるだろう。

 ハンバート・ハンバートを演じたのはジェームズ・メイソンで、シャーロットはシェリー・ウィンタース。このあたりのキャストは早くに決まったらしいけれども、ハンバート役にはローレンス・オリヴィエピーター・ユスティノフ、そしてデヴィッド・ニーヴンらの名もあがっていたらしい。むむ、ローレンス・オリヴィエハンバート・ハンバートというのも、ちょっと観てみたかった気がする。
 ロリータ役を決定するのには時間がかかったらしいが、そのときテレビ番組に出演していたスー・リオンキューブリックらスタッフの目にとまり、彼女が抜擢されたという。撮影時に彼女は14歳だったというから、小説のロリータとそんなに歳は変わらない(映画ではそれではヤバいので、ロリータの年齢設定は引き上げられている)。彼女の魅力は公開時に評判になったが、ナボコフはのちに「ロリータを演じるのは『地下鉄のザジ』の子役、カトリーヌ・ドモンジョが良かったんだがな~」などと語ったとか(ナボコフもけっこう映画を観ているからね)。
 余談だけれども、スー・リオンはこの映画撮影時に、プロデューサーに凌辱されたのだという。彼女はのちに、「『ロリータ』からわたしの転落が始まった」と言ったそうだ。ほとんど原作『ロリータ』をなぞるような話だが(あと、彼女はのちに死刑囚と獄中結婚し、芸能界から干されてしまったともいう)、彼女は去年の暮れに亡くなられた。

 さて映画のことだけれども、先に書いたようにセックスを暗示するような場面もセリフもなく、ハンバート・ハンバートがロリータに寄せる思いはほとんど「純愛」という感じで、そこにクィルティこそがそんなハンバートの純愛を邪魔する「悪役」として何度も何度も登場する。それがセラーズの奇怪な演技により、サスペンスといいながらもコメディ色は非常に強くなる。まあこのあたり、映像化不可能なナボコフペダンティックな文章を、ピーター・セラーズの演技(彼の即興を含む)にまかせたという見方もできるかもしれない。
 そもそも原作でも、ラストのハンバートとクィルティとの対峙の場面はスラップスティック・コメディという感じだったのだけれども、映画ではまずそのハンバートがクィルティを追い詰めて撃ち殺すところから始まるわけで(この変更はキューブリックの案だったという)、この映画ではその後の「ハンバートって、別に悪いことしてないんじゃないの?」という流れに、先に「実はハンバートは人を殺すのだ。それはなぜ?」という興味で観客をひっぱることになっただろう。つまりこの映画ではハンバートはロリータを凌辱して抑圧したことで「有罪」なのではなく、「恋敵」としてロリータを奪ったクィルティを殺害したことで「有罪」なのだ、という印象になる。

 原作は第2部の冒頭あたりから、ハンバートとロリータが車でアメリカ中のモーテルを渡り行く、「ロードノヴェル」的なところもあるのだけれども、そのあたりはさっさと端折って(さいしょにホテルに泊まることになったときの、「補助ベッド」をめぐる滑稽な展開はあるが)、すぐにハンバートは学校の教授になってビアズレーの町に定住し、ロリータは町の女学校に通学することになる。そのあとにロリータはクィルティ作・演出の『魅惑の狩人』という演劇に出演して(原作ではその芝居に「出るよ」という話までだったけれども、映画ではそんな舞台の様子もちょっと描かれる)ハンバートの逆鱗に触れ、「もう学校やめる」となって、ここからロリータが入院して消え去るまでちょっとだけ、二人の車での旅が描かれる。しかし、宿泊するのは「モーテル」とかではなくちゃんとした「ホテル」のようだった。そういったホテルの客室での、ブラインド越しの光とかはいい感じだった。

 音楽はネルソン・リドルが担当しているけれども、「主題曲」といっていい「Lolita Ya Ya」は、60年代っぽくって楽しい曲だ。

2020-11-22(Sun)

 休日3日目。わたしの4連休もあと一日になった。どうもわたしは早起きの癖がついてしまっているし、ニェネントへの朝食もあるので「今日は休み」という日でも5時ぐらいにはすっかり目が覚めてしまう。まだ時間は夜明け前で、窓の外は真っ暗。

 夜が明けて明るくなってみると今日も空は真っ青な快晴で、「洗濯をしよう」と洗濯機に洗濯物をいっぱい詰め込んでスイッチを入れ、洗い終わった洗濯物をベランダの外に干した。

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 テレビのニュースをみていると、昨日は全国の行楽地に人があふれたという報道。そりゃあコレがやりたくって政府は「Go To トラベル」とかを始めたわけだから、政府の思惑通りのことだったわけだろう。しかしCOVID-19の感染者が急増し、「Go To キャンペーン」なんかやっている場合かとなって、菅首相もついにキャンペーンの一時停止を発表した。
 報道はそのことを踏まえて、観光地に訪れた人々に質問をしていたりするのだけれども、ナレーションでは「Go To キャンペーン」について賛否両論だという。それは何というか、「Go To トラベル」に乗っかって旅行してきた人に「Go To トラベル」をどう思うか?と質問しても、「早く中止にした方がいい」とは答えないだろう。

 ネットで調べてみると、すでに10月に発表されたアンケート(つまり最近のCOVID-19感染者数の増加前のアンケート)で「Go To トラベル」に反対の人が70パーセント、「Go To トラベル」を利用しないと答えた人は87パーセントもある。おそらく今は、もっと反対する人は増えていることだろう。
 それが、そんな「Go To トラベル」利用者に質問して「賛否両論ですね~」というのはおかしいのではないのか。ここには「Go To トラベル」を利用せずに家にいる人の意見は聞かれない。「そんな声を拾うのは現実的にムリだろう」というのではなく、報道とはそういう、利用しなかった人たちの声をも工夫して紹介しなければならないだろうと思う。

 20日には「Go To イート」の食事券も発売されたようで、そんな発売所前にずらりと並ぶ人たちの映像も紹介されていた。そこには係員とか警備員の姿は見られず、ただ人々はランダムに列をつくっているだけなのだが、とにかく前後左右の人たちと密接して並んでいるわけで、「ソーシャル・ディスタンス」もへったくれもない。一昨日わたしが行った「国立歴史民俗博物館」のチケット売り場での厳重すぎるほどの管理とは、まるで別の国の出来事みたいだった。
 菅首相は「マスク会食」といい、小池都知事は「五つの<小>」などというのだが、もうすっかり「3密」を避けましょうなどとは言わなくなった(小池都知事はちょこっと言っていたか?)。
 わたしも外に出てみて、ロビーの椅子などでは「間隔をあけて座りましょう」として「座らないでほしい椅子」に紙が貼られていたりはするし、スーパーやコンビニのレジへの順路にはやはり間隔をあける指示があって、そういうところではみんなそういう指示に従っているのだけれども、それ以外のところではもうすっかり、「3密」を避けようなどとしない人ばかりになった感がある。
 今はもう「マスクさえしていれば大丈夫」みたいになってしまっているのかと思うけれども、やはり「マスク」プラス「3密を避ける」プラス「手洗いをする」ということが基本というか、「マスト」なのではないだろうか。そういうことをしつっこく言わなくなったメディアに責任があると思うし、「人で混雑する」と予想される場所での管理がいいかげんにもなっている気がする。
 今は外に出たとき、一人だけの努力ではCOVID-19から身を守ることもむずかしい。皆が努力しなくなれば、もう外に出ることを極力避けるしかないと思う。

 今日は午後からキューブリック監督の『ロリータ』を観て、そのあとは大相撲の千秋楽。夕食は昨日一昨日と食費がちょっとかさんだので、安上がりでかんたんな「厚揚げの卵とじ」をつくった。厚揚げは、安くて便利な食材だ。
 この日もけっきょく、一歩も外に出なかった。
 

『ロリータ』ウラジーミル・ナボコフ:著 若島正:訳

ロリータ (新潮文庫)

ロリータ (新潮文庫)

 おそらく、わたしがこの『ロリータ』を読むのはこれで三回目ぐらいになるのではないかと思う。さいしょはわたしもめっちゃ若かった頃のことで、もちろん大久保康雄氏による「旧訳」。そして、二回目は多分十年ぐらい前、今回読んだ若島正氏による訳が文庫化された頃だと思う。それでもって、わたしはそのあとに「過去の記憶を失う」という悲しい疾病を患ったおかげで、この作品の大まかなストーリーはわかっているものの、まあたいていのことは忘れ去ってしまった。そして今回、ほとんど初めて読むような気分でこの『ロリータ』を読んだことになる。

 で、こうやって新たにこの本を読むまでのあいだに、世間では「幼児性愛」的な犯罪が増加したわけだし、例えば映画監督のロマン・ポランスキーなんか、まるで「生けるハンバート・ハンバート」のごとき幼児性愛者として告発され、アメリカから追放されたりもしているわけだ。そういう世情を頭の片隅に置きながらこの『ロリータ』を読むと、「うへえ」というか、「これはヤバい」という反応が頭をもたげる。特に(これはあとで書くが)語り手のハンバート・ハンバートが、自分が凌辱するドロレス・ヘイズの人格をまるっきし無視していることに「おぞましい」という感覚を持ってしまう。

 それで、この作品の「語り手」であるハンバート・ハンバートという人物、まさにウラジーミル・ナボコフの創作した人格・人物なわけであって、「ハンバート・ハンバート」イコール「ウラジーミル・ナボコフ」ではない。しかし、ヨーロッパ(フランス)からアメリカに移住してきた人物であり、英語文学やフランス他ヨーロッパ文学に精通し、「フランス文学入門書」を編纂し、英語教師でもあったというハンバート・ハンバートはやはりナボコフ自身を想起させられるし、ひんぱんに引用される文学作品、そして「言葉遊び」、そしてこれまで読んできたナボコフ作品でも特徴的なユニークな比喩の多用からも、「これはまさにナボコフの文章ではないか」と思い、つまりそのことはいつか、「ハンバート・ハンバート」=「ウラジーミル・ナボコフ」みたいなつもりで読み進めることになってしまう。
 こんなことは小説を読む上で基本の前提として、「語り手」=「作者」ではないことは当たり前のことなのだけれども、この『ロリータ』のように作品全体が「語り手」の独白であり、その独白に「作者」の経歴やその作者独特の文体が認められると、そのあたりが混同されてしまうこともあるようだ。つまり、あたかもナボコフハンバート・ハンバートのような嗜好、思考をしているのではないかという誤解である(ただし、アリバイ工作のように、ハンバートはナボコフとちがって「蝶」と「蛾」の区別もつかないわけだけれども)。

 こんなつまらないことを長々と書いたのは、一~二年前にこの日本で、とある小説家や批評家によって「『ロリータ』否定論」のようなものが唐突に語られたことを思い出したからなのだが、わたしはそこには上に書いたような、「語り手」と「作者」との初歩的な混同があるのではないかと思ったのだった。つまり、この作品の語り手のハンバート・ハンバートを否定することが、そのままこの『ロリータ』という作品の「否定」になってしまっているのだ。
 これとは逆のケースもあるわけで、つまり「ナボコフは偉大な作家であり、この『ロリータ』は名作なのだから、彼が作品の中で彼の代理人として生み出したハンバート・ハンバートという人物は当然、肯定されなければならない」という読み方で、そこに「ハンバート・ハンバートのドロレス・ヘイズへの<純愛>」を読み取ろうとする。
 もちろん、ラスト近くに描かれたハンバートの体験、断崖の上で子供たちの遊び声を聞き、その声の中にロリータの声が含まれていないことを「絶望的なまでに痛ましい」と感じ入ったシーンはあまりに美しくも感動的で、そこに涙してもしまうのだけれども、その「ロリータの声の不在」の原因は、まさにハンバートのロリータへの行為の中にあったわけである(ただ、この場面の中においてのみ一瞬、ハンバート・ハンバートの贖罪はなされているのかもしれないが)。

 もちろん、ドロレス・ヘイズという「少女」にしても「純」な少女というわけでもなく、すれっからしでもあるわけだけれども、たとえば第一部の終わりに、「真夜中に彼女がしくしく泣きながら私の部屋に」やってくることの意味をハンバート・ハンバートは理解しないし、そのあとも「行為」のあとに嗚咽して泣く彼女のことを理解できない。自分が彼女を隷属状態に置き、「実は彼女が本当に腹を立てたのは、私が何か特別な楽しみを奪ったからではなく、全般的な権利を奪ったからだということがまもなくわかって、私は心底ほっとした」などとしれっと語る人物なのである。ドロレス・ヘイズは行方不明になって3年目のハンバート・ハンバートへの手紙で、「わたしはこれまで悲しい思いやつらい思いをたくさん体験してきましたから」と書くのである(ハンバートはそんな言葉に無頓着で、ただドロレスの居所を知り、彼女を連れ去った男への「復讐」の思いを抱いているのみである)。

 そのドロレス・ヘイズをめちゃくちゃにしてしまった男がもうひとり存在するわけで、ドロレスは「あたしの心をめちゃめちゃにしたのはあの人なの。あなたはあたしの人生をめちゃめちゃにしただけ」とハンバートに語るのだけれども、つまり対になってドロレスをいたぶったもうひとりの人物とはハンバート・ハンバートのまさに「分身」であり、この作品の終盤はハンバートが自分の分身を追いかけるという展開。その「分身殺し」のシーンはまさにスラップスティック・コメディだけれども、ナボコフもここでの二人の取っ組み合いを「私たちは私の上にのしかかった。彼らは彼の上にのしかかった。私たちは私たちの上にのしかかった」と、わかりやすく書いてはいる。

 ナボコフの小説らしくも、この「ハンバート・ハンバート」という、ひょっとしたら正気を逸しているかもしれない(いや、多分そうだろう)人物の回想、告白を、どこまで信用して読むべきなのかわからないところもあり、「ひとりの男に常につきまとう自分自身の影」として、この「クレア・クィルティ」という存在は、さいしょっから「ハンバート・ハンバート」の妄想なのではないかとも思える。
 ではなぜハンバート・ハンバートは逮捕されて収監されているのかということになるが、まあ彼の妄想の中の「クレア・クィルティ」を抹殺するため、「お門違い」の人物を殺害したのではないだろうか(あまりに乱暴な読み方)。

 ‥‥ということで、三回目の『ロリータ』を読了した。また来年にでも再読しようではないか。きっと、また違った読み方ができることだろう。あまりにいろんな「仕掛け」がありすぎる本だ。
 

2020-11-21(Sat)

 休日2日目。一歩も外に出ることもなく、食事も昨日買った天ぷらですませ、な~んにもしなかった。やはり昨日のお出かけで長い時間立って展示を観て、それなりにたくさん歩いたので疲れたのだろう。連休の初日に出かけたのは正解だったか。これからの3日間は、ニェネントといっしょにゆっくりと休もう。

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 昨日はまた東京でも500人を越すCOVID-19の新規感染者が出たということで、北海道や大阪でも(いや、全国で)感染者が大幅に増加している。こんな状態でも「Go To キャンペーン」を継続するのかと思っていたら、夕方になって菅首相が「記者会見」ではなくして一方的に「Go To キャンペーン」の見直しを表明した。内容はまずは「Go To トラベル」に関しては感染拡大地域への旅行の新規予約を一時停止するといい、「Go To イート」は食事券の発売を一時停止するという。
 いつものように、ただ一方的に用意された文書を棒読みするだけのことなのだが、「記者会見」ではないわけだから「質問」に答えるというわけではない(彼の場合、「記者会見」であっても質問には答えないわけだが)。それでつまり、「一時停止」とはいったいいつからのことなのかまったくわからないし、「一時」とはどういうことなのか(どのような条件で再開するつもりなのか)不明だし、そもそも「Go To トラベル」での「感染拡大地域」とはどこのことなのか、どういう基準で「感染拡大地域」というのか不明である。というか、日本全土が「感染拡大地域」なのではないのか。ただ言っただけの、内容不明な言動であろう。
 しかも、その表明したタイミングが、この3連休の始まるという初日の夕方であるということ。たいていの人はもう3連休の予定を決めているわけだし、じっさいにテレビでは観光地や空港に人があふれている様子が報道されてもいた。菅首相のいう「一時停止」がいつからかまるでわからない以上、これからの3連休の予定は変えないね、という人たちが多いだろう。それがどういう結果になるのか。菅首相は首相就任以来なにひとつアクティヴなことをやっていないのだが、今回の「表明」の遅れ、しかも「記者会見」なし、というのは普通なら致命的な失策だろう。もう、日本は菅首相に滅ぼされようとしている感がある。
 日本の保守層も、アンケートでは「菅首相支持」と答えるかもしれないけれども、ネットなどを見ていてももう積極的に菅首相を持ち上げようとはしていないように見える。ネトウヨ諸氏などはもう、菅首相を応援することよりもアメリカのトランプ氏を持ち上げることに熱中しているように見える(それも、このところさすがにトランプ氏敗北が明確になってきて声が小さくなっている印象があるが)。

 夜、寝る前にニェネントくんの妨害にもめげず、ようやくナボコフの『ロリータ』を読了した。明日にでも、キューブリックの監督した映画『ロリータ』を観ようかと思う。
 

『性差(ジェンダー)の日本史』@佐倉・国立歴史民俗博物館

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 第1章 古代社会の男女
 第2章 中世の政治の女
 第3章 中世の家と宗教
 第4章 仕事とくらしのジェンダー -中世から近世へ-
 第5章 分離から排除へ -近世・近代の政治空間とジェンダーの変容-
 第6章 性の売買と社会
 第7章 仕事とくらしのジェンダー -近代から現代へ-

 この日本が今、驚くべき速さで保守化・反動化していく中で、女性差別もまた顕在化されるようになっている印象があるし、今では「フェミニズム」という言葉はそれだけで揶揄の対象になってしまっている。そんなとき、正面から日本史の中の「ジェンダー」の推移・変化をテーマにした展覧会が開かれるということは、それだけでわたしなどには魅力的であり、これまで知らなかった「国立歴史民俗博物館」という施設の存在も知ることとなった。

 購入した図録掲載の「ごあいさつ」には、この博物館の中心となる二つの「視点」があげられていて、それは「多様性」=「日本列島における少数民族、身分や階層、性差・年齢差を含むマイノリティの視点から歴史をとらえる」、「現代的視点」=「私たちが現在直面している課題に正面から向き合い、歴史的見地からその課題解決に取り組んでいく」という二つだという。
 これまでこの博物館でどのような企画展示が行われてきたのか、不勉強にして知らないのだけれども、この『性差(ジェンダー)の日本史』展はまさに、この博物館の「視点」に合致する展示ではあるだろう。

 上にあげたように、今回の展示は7つの「章」に分けられた展示なのだけれども、これはさらに大きく分けると「政治空間における男女」、「仕事とくらしの中のジェンダー」、そして「性の売買と社会」というふうに大別されるという。さあ、展示を観てみよう(ていねいに書いていくととんでもない長さの文章になってしまいそうなので、ちょっと端折りながら書いていきます)。

 「古代社会の男女」では、なかなか目で見てすぐにそこに男女差があると視覚化される資料もないのだけれども、古墳時代の初期には女性首長も男性と同じぐらいの数があったものが、だんだんに女性首長の数が減少して行ったことが示される。それは律令国家の成立に並行してのことだという。
 「中世の政治と男女」あたりから古文書の展示が多くなり、まあ読めないわけですから、パネル解説をいっしょけんめいに読むことになる。興味深かったのは、中国から仏教が伝来したとき、そもそも中国の仏教観では女性蔑視的な考えが大きかったわけだけれども、それが日本では当初そこまでの女性蔑視はなかったらしいということ。しかし、時を経るにつれてやはり日本でも宗教での女性差別は大きくなっていく。

 やはりわたしなどが観て興味深いのは「仕事とくらしのジェンダー」の展示で、絵画作品の展示も多いし、だんだんに「男の仕事」「女の仕事」というものが分離して行く過程、その「女の仕事」も、時代が下ると抑圧されるようになることがよくわかる。
 それと並行して、武家など「支配階級」の中での「女性」のあり方も提示されるのだけれども、具体的にその「屋敷」の中でも女性の居場所がいわゆる「奥」に位置されるようになるのがわかる。つまり「大奥」なのだけれども、その「大奥」で奉公しようとする庶民女性の生き方など、マンガ風のイラストで紹介されたりして、わかりやすいというかかわいい。

 そしてわたしにとってのこの企画展示の白眉は「性の売買と社会」の章で、ここはほんとうにじっくりと観た。中世の「遊女」(けっこう自立、独立していた)から、江戸時代の幕府公認の「遊郭」の誕生、そしてその後戦後までつづいた売春制度に関する展示である。
 「遊郭」での、商品としての遊女らの暮らしは過酷なものでもあったわけだけれども、今回の展示で「遊女屋梅本屋」において、あまりに非道な抱え主の横暴に耐えかねた遊女ら16人が、2年以上も合議を重ねて皆でその遊郭に放火したという話がかなり印象に残った。どうやら「大火」にならないように慎重に火付けし、すぐに名主方に自首して抱え主の非道を訴えたのだが、裁きの結果抱え主は島流し、「火付け」であれば普通「死罪」なのだが、首謀者とされた4名も島流しということになったらしい。その遊郭での遊女らの書いた日記が展示されていて、毎日の食事などが克明に書かれているのだが、「食事なし」の日も多く、たいていは「香々で茶漬け」。その香々も腐っていたりするのである。このあたりの展示は、「ひとつの象徴的な事件」のドキュメントとして、非常に強い印象を受けた。
 あとはこのコーナーには、あの高橋由一重要文化財でもある『花魁』が展示されてもいた。この作品のモデルをつとめたのは当時のいちばんの売れっ子だった四代目小稲だったのだが、完成した絵を見た小稲は、「妾はこんな顔ではありんせん」と泣いて怒ったらしい。うん、このエピソードには近代絵画(油絵)導入期の「問題」として、いろいろなことが想起されるのだけれども、とりあえず「小稲さん、怒っていいよ!」とは思うのだった。

 まだまだ書きたいことはいろいろあるのだが、あと一つあげておけば、近代の「鉱山労働とジェンダー」としての展示で、山本作兵衛氏の「炭鉱画」が3点展示されていたのがうれしかった。わたしは山本作兵衛氏の作品の「現物」を観るのははじめてだ。思っていたよりも保存がいいというか、きれいな作品だったのが意外といえば意外だったか。

 このテーマで作品を集めたら、いくらでもいくらでも関連資料、作品が展示できることと思うけれども、それではどんどん散漫になってしまうだろう。手元にある資料、作品を中心に、これだけきっちりとした展覧会を実現したこのプロジェクトの代表横山百合子氏と、学芸員の方々はすばらしい仕事をなされたと思う。

 そう、帰りにミュージアムショップで「図録」を買ったのだが、展示された文書をすべて翻刻して掲載し、古い文章には現代語訳が併載されていた。わたしなんか展示された文書なんかぜ~んぜん読めはしないわけだったし、ものすごく助かるのだった。そして展示された以上の解説、「参考作品」として展示されていなかった作品の写真も掲載されていて、「これは買わなくてはいけないヤツだな」と思ったし、COVID-19禍とかで観に来れなかった人など、この「図録」だけでも取り寄せて読めばいいのではないかと思うのだった。