ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『真珠湾攻撃』(1943) ジョン・フォード、グレッグ・トーランド:監督

真珠湾攻撃 [DVD]

真珠湾攻撃 [DVD]

  • 出版社/メーカー: IVC,Ltd.(VC)(D)
  • 発売日: 2010/03/25
  • メディア: DVD

 今日12月8日は、78年前に日本軍(日本海軍)がハワイのオアフ島真珠湾アメリカ軍艦隊と基地とを奇襲した日。つまり「太平洋戦争」が本格的に始まってしまった日である。アメリカ時間では12月7日で、アメリカでは「December 7」として記憶されている。

 この映画は、アメリカ海軍のプロデュースで製作された記録~プロパガンダ映画で、「共同監督」としてジョン・フォードと共にグレッグ・トーランドの名があるのだけれども、このグレッグ・トーランドという人物は本来撮影監督、それも名カメラマンという人物で、『嵐ケ丘』や『怒りの葡萄』、『市民ケーン』などの撮影を担当した人だけれども、残念なことに1948年に44歳で早逝されている。
 この映画でどのようにグレッグ・トーランドが「監督」としてかかわっていたのかはわからないが、当然、記録映像以外の部分での撮影は彼があたっている。

 さてさて、日本軍の奇襲を受け、アメリカとしては「ジャップめ、やりやがったな! こうなったらてめえらのことコテンパンにのしてやるぞ!」という気分もあっただろうし、そういう「戦意高揚映画」になりそうなものだけれども、それがそうではないのだから驚いてしまう。

 映画の前半は、US(アンクル・サム)という人物(ウォルター・ヒューストン~この人はあのジョン・ヒューストンのお父さんなのだ)の書斎で、訪れたミスター・Cという人物(ハリー・ダヴェンポート)との長い対話で、そもそも「ハワイ」とはどのような「地」なのかということを、「地政学」とはいわないまでも延々と語られる。美しい観光地であり、サトウキビとパイナップルの生産を伸ばして潤う土地。そしてさまざまな移民の中で、日系移民の数がハワイ全人口の3分の1を超えることなどが映像と共に語れらる。その日本人の文化とはどのようなものか。特に、ハワイにもある神社を通して「神道」のことが説明されるのだが、つまり戦前~戦中の神道とは「国家神道」であり、天皇制と深く結びついていた。ここでの「神道」の説明には違和感もあるのだけれども、アメリカからみた、日本を「戦争」へと突き進めさせる「原理」としての「神道」を、このように解釈したのだという空気はわかる。

 そんな日系人たちが、そういう日本の不穏な動きに合わせて「あいつら、諜報活動やってるんじゃないの?」というシーンはいっぱい出てきて、それで12月7日になるわけだ。アメリカ側の伝達ミスから防御態勢が取れなかったことも語られるが、攻撃が終わったあと、日本で報道される「アメリカ軍に壊滅的打撃を与えた」というのはちがうよ、ということをしっかり語り、破壊された艦船もほとんどが復旧修理され前線に復帰する様子が映される。
 そして、この奇襲攻撃で命を落とした何人かの兵士のことが語られ、(おそらくは)アーリントン墓地の映像になる。
 日系の人たちもまた、この思いがけぬ「奇襲」によって、ハワイでの生き方を大きく変えていく様子も紹介され、スパイ容疑者は拘束される。

 観ていて思ったのは、「なんと日系のハワイ住民に対して<公平>な作品だろう」ということで、たしかに「諜報活動への関与」の疑いは語られるのだが、だからといってアメリカ本土であったように日系人を隔離して収容所に送るなどということはない(まあ住民の3分の1が日系だとそういうことは<非現実>的な対応ではあるだろうが。
 そしてやはり、前半のUSとミスター・Cとの対話で、ここには「清く大きく成長するアメリカという国」への希望が、特にUSによって語られる。もはや他国を侵略して国家の発展を目指すわけではないということなのだが、まあこのことは太平洋戦争後の東西対立とかヴェトナムとかで崩れていくわけだろうけれども。

 アメリカ軍は、発注して出来上がったこの「映画」に不満で、本番の「奇襲」シーンの映像32分間だけを編集して公開したという。
 まあこの作品、「フン! 日本なんかよりアメリカの方が強いんだぜ!」というプロパガンダもあるのだけれども、「てめえ~っ!やりやがったな~!」という感情的な文脈も少なく、そういう「今はアメリカで生活する」ハワイ在住の日系人に<公平>な作品だ、という印象を受けた。
 

2019-12-08(Sun)

 日曜日。今日は晴れ空で昨日までのような寒さはない。かなりしのぎやすい日ではないかと思う。昨日一昨日とお出かけしなかったので、「ちょっとお出かけしてみようかな?」という気分にもなったけれども、買い物をしておかなくてはならないし、「DVDも観たいよね」という気分だし、「無駄遣いはやめましょう」コールも頭の中で鳴っているわけだし、けっきょく今日も出かけないで過ごした。まあ昼前に東のスーパーまで行って、週初めの恒例の「バナナ」などを買う。

 買い物に行く途中の道ばたの花に、茶色い蝶(蛾?)がとまっていたのを写真に撮った。調べたら「ヒメアカタテハ」という蝶だった。よく見る蝶だ。

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 実は、しばらく前から顔にかゆみがあったのだけれども、今日はそんな「かゆみ」も強くなった。鏡を見ると部分的に顔の皮膚が赤く変色し、その表面に白い「フケ」のようなものがついている。見た目にもかなりヤバい。調べると「乾癬」というヤツではないかと思う。これは「通院事項」である。明日、早急に仕事のあとに皮膚科の病院に行くべきだろう。‥‥こうやって、「金を貯める」という夢は崩れていくわけだな。

 夕食はお手軽に「お好み焼き」ということにして、買ってあったキャベツもあらかた食べてしまった。こうやってひとりで自炊していると、例えば白菜だとかキャベツだとかをひと玉買って、まあ何日かかけてでもダメにしないうちに完食できると、かなりの「達成感」があるものだ(けっこう、食べ終わらないうちに傷んでしまって廃棄することもある)。例えば「レタス」とかだと、完食はたやすいのだが。
 金曜土曜と、あまりに早くに就寝し、「それでは寝すぎだろう!」とも思ったのだが、この日も8時を過ぎたらベッドに行き、多少は本(柄谷行人の『トランスクリティーク』)も読むのだが、よくわからないので読んでるうちに眠くなってしまい、じきに寝てしまうのである。
 

『ジョアンナ』(1968) マイケル・サーン:脚本・監督

 先日観たタランティーノの『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』の中でいっしゅん、壁に貼られたこの映画のポスターが映され、わたしも公開当時にこの映画を映画館で観たことを思い出した。「DVDは今リリースされているのだろうか?」とチェックしてみたら、意外と廉価で売られていたものでついつい買ってしまったもの。しばらくそのまま放置していたが、ようやっと観てしまった。

 1967年だか68年だか、「スウィンギング・ロンドン」といわれた頃のロンドンが主な舞台。ヒロインのジョアンナは美術学校へ通うためにロンドンに出てきて、つまりは自由で奔放、ファッショナブルな彼女の生活が始まる。

 ジョアンナを演じるのは、この作品でいきなり主役デビューしたジュヌビエーブ・ウエイトという女の子だが、はっきりいって表情に乏しく、とても女優業が勤まるとは思えないわけで、じっさいに以後の映画界でのキャリアはないといってよく、それよりもあの「ママズ&パパス」のジョン・フィリップスの3番目の妻として記憶されることになるだろうか。彼女は今年の5月に亡くなられているようだ。
 他には死期の近い富豪役でドナルド・サザーランドが出演し、映画の基調を築く重要な役を彼らしくこなしている。監督のマイケル・サーンはこのあとに1~2本撮っているようだが、けっきょくそこまでで終わってしまわれたようだ。

 67年とか68年のロンドンの美術学校というと、のちにロックの世界で名を残す多くのミュージシャンが通過したところでもあるのだけれども、ここでの主人公は女の子だし、この映画にはそんな音楽を志す若者は登場しない。主人公のジョアンナは別に(例によって、というべきか)美術を熱心に学ぶわけではなく、友だちの女の子と毎夜「発展」を楽しむというか、ま、何をやりたいのかはっきりしない子なのだけれども、ドナルド・サザーランドとの出会いで「愛」の重要さを学び、友達の兄と愛し合うようになる。彼は事件を起こして刑務所入りするのだが、彼女は彼の子を産むことを決意してロンドンを離れるのだ。

 ラストにパディントンの駅から帰路に着こうとするジョアンナに、それまでの登場人物らと、楽屋オチ的にスタッフら全員がホームでジョアンナを祝福するのだ。このラストシーンは評判になったというか、わたしもこのシーンだけは記憶していた。
 

2019-12-07(Sat)

 寒い。予報の通りに、早朝には横浜で初雪が降ったという。今日はひょっとしたらいろいろと出かけてみようかという気もちも多少あったのだが、この地域の日中の最高気温は5度ぐらいだということだし、わざわざ風邪をひくリスクを冒してお出かけすることもない。それに、今までの経過では12月は驚くぐらいの貯蓄が出来なくもない。そうなると「どのくらい残せるかやってみたい」という気にもなってしまう。
 ただ、来年2月末の「地点」の公演の一般予約受付が今日からで、「やはり観たいよな」と予約をしてしまった。まだS席ではないA席も残っていたのでA席にしたけれども、そんなに安くもないのだ。座席指定で位置的にはS席のすぐ後ろの席だったから、ちょっと得をした気分ではあるが、まあ久々の観劇予約ではある。

 ニェネントは、凍えている。器用にわたしの布団と毛布とのあいだにもぐりこみ、外から見たのではいったいどこにいるのかわからない「忍法」である。
 そうっと毛布をめくってみると、ニェネントが顔をのぞかせて「にゃ~」となく。

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 もう、布団はニェネントの毛だらけではあるが、今は掃除するのもめんどうである。

 今日は、もうずいぶん前に買ったまま放置してあったDVD『ジョアンナ』をようやっと観た。ほんとうは今日はDVDを2本観ようと思っていたのだが、『ジョアンナ』を観終えて「ちょっと本を読もう」と和室のベッドに行ったら、案の定そのまま寝てしまったのだった。
 

『遠い太鼓』(1951) ラウール・ウォルシュ:監督

遠い太鼓 [DVD]

遠い太鼓 [DVD]

 なかなかに面倒な映画である。これは「西部劇」というものではなく、「西部劇前史」というか、フロリダを舞台とするセミノール(先住民)とアメリカ軍との闘争(戦争)をテーマとしており、時代的にもこの映画で描かれているのは1840年前後のことらしい。アメリカ先住民はこの「セミノール戦争」のことを「インディアンのヴェトナム戦争」と呼んでいるらしい。この映画を観ても、それがジャングルを舞台としたゲリラ戦の様相を示していたことがわかる。
 そして、先住民がこれを「インディアンのヴェトナム戦争」と呼んだように、期せずしてこの作品、あのヴェトナム戦争を舞台にした『地獄の黙示録』に酷似したところがあるではないか。

 まるで『地獄の黙示録』でウィラード大尉がカーツ大佐を探し求めるように、この作品でもタッフ中尉という人物が、すでに何年もこの奥地で暮らしているワイアット大尉(ゲイリー・クーパー)のところへと行く。出会ったワイアット大尉はすでにスペイン統治下の土地に同化していて、すでに亡き現地妻とのあいだに男の子ももうけている。ここまでの展開はほんと、まるで『地獄の黙示録』だ。
 ここからはタッフとワイアットが協力して先住民の砦を攻撃し、捕虜になっていたヨーロッパ人を救い出し、共にジャングルの中を追ってくる先住民から逃げるのである。ただただ、ジャングルの中を先に進む。ほとんどが沼沢地帯で、ワニはいるし毒蛇はいるしたいへんである。助けたヨーロッパ人の中にジュデイというわけのわかんない女性もいて、ゲイリー・クーパーとわけのわかんないロマンスを展開もする。

 けっきょく、追ってきたセミノールの長とゲイリー・クーパーとが水中で一対一での対決をして、まあセミノールの長が負ければセミノール勢は皆追うのをやめるだろうということである。ある意味、「先住民撃退」という侵略者的映画ではある。

 何が面白いのかよくわからないということで面白い映画で、先に書いたように『地獄の黙示録』かよ!というところもあるし、延々とつづくジャングルの描写はそれなりに強烈に力があふれているというか、ヘルツォークの作品さえ思い浮かべてしまうではないか。
 

『増補 普通の人びと ホロコーストと第101警察予備大隊』クリストファー・R・ブラウニング:著 谷喬夫:訳(ちくま学芸文庫)

 今、ツィッターをみていると、「普通の日本人」とプロフィールに書いている人物がたいていは安倍支持の反動右翼、レイシスト(いわゆる「ネトウヨ」)であることもあり、そういう「自分は<普通>」という人たちが、例えば日本では関東大震災の時に朝鮮の人たちを虐殺し、戦時下では南京やマニラでの<大虐殺>を起こしている。そのような<犯罪>を犯した日本人らは、生活の上では温厚な人ではなかったのだろうか。
 今の日本でも、朝鮮の人たちを排斥しようとするレイシストの活動が目立つようになっている。そういう<レイシスト>たちを「普通の日本人」と呼ぶことは出来ないだろうが、どうも一般の人たちの精神においても「嫌韓」という意識は広まっているみたいだ。
 はたして、そんな「嫌韓」意識を持つ「普通の」人たちは、<有事>の際、あの<ホロコースト>のような行動を取るのだろうか? もしも日本人がそのような行為を行うとして、それはどのようなきっかけによることになるのだろうか? そういうことを知りたくてこの『普通の人びと』という本を読んだ。

 「警察予備大隊」とは、いわゆる「軍人」、「兵士」ではない。いわゆる通常警察なわけだけれども、つまり「国防軍」ら正規の軍隊の背後でさまざまな「警察的」業務に携わっていたらしい。ここで取り上げられた「第101警察予備大隊」はハンブルグで徴収された人びとで構成されていたようだが、つまりは徴兵の対象になっていなかった人びとを多く含み、四十代の人もかなり含まれていたという。
 そしてその「第101警察予備大隊」はポーランドに派遣され、まずはポーランドユダヤ人らの虐殺を携わることになる。

 わたしは不勉強で知らなかったのだが、ヒトラーナチスによるユダヤ人虐殺(ホロコースト)はアウシュヴィッツなどの「絶滅収容所」によるものだけではなく、まずは森などにユダヤ人を連行して射殺する「虐殺」があり、これはホロコーストによるユダヤ人犠牲者600万人のうち、20パーセントから25パーセントの数になるのだという。その「射殺」の具体的方法はこの本に書かれているが、おぞましくも残虐で、想像するだに恐ろしい行為だと思う。
 この「ユダヤ人射殺」に、「第101警察予備大隊」があたることになる。さいしょの虐殺、1942年7月のユゼフフでは1500人のユダヤ人が森に連れ込まれて撃ち殺されている。
 このとき、総括指揮者であったトラップ少佐は悩み、警察隊員に「やりたくないものはやらなくてはいい」という選択権を与え、自らも命令を出したあとに泣き崩れていたという(彼は戦後の裁判で死刑になるが)。
 警察予備大隊の隊員はそのように「いやなら参加しなくてよい」というサジェストを聞き、何人かの隊員は「やりたくない」と指令を拒否する。その数は5パーセントから10パーセントだという。
 第101警察予備大隊によるユダヤ人虐殺は、1943年11月までに3万8千人の数にのぼり、さらに絶滅収容所へ、彼らの運命を知りながら強制移送させたユダヤ人の数は4万5千人に及ぶ。

 著者のブラウニングはこれらの「事実」を記述しながらも、隊員のさまざまな対応について考察していく。中にはサディスト的に殺人を楽しむような「クソ野郎」もいたし、可能な限りユダヤ人に救いの手を差し伸べようとしたらしい隊員もいた。しかし、多くの隊員は結果として、ユダヤ人の殺りくに協力していたのだ。それはなぜか? ヒトラーの「ユダヤ人絶滅計画」に賛同したのか?

 この書物は「あとがき」が長い。それは、この書物が出版されたあとに、ダニエル・J・ゴールドハーゲンによる『普通のドイツ人とホロコーストヒトラーの自発的死刑執行人たち』という書物が話題を集めたことにより、ブラウニングによる、そのゴールドハーゲンへの「反論」が大きなスペースを占める。
 かんたんに言えば、ゴールドハーゲンは当時ヒトラーの「ユダヤ人殲滅計画」がドイツ人全般に浸透していた結果としての「虐殺」があった、というわけだが、そこにブラウニングは「異」を唱える。

 わたしは、この「あとがき」などを読んだ限りでは、ゴールドハーゲンの主張は一面的すぎるのではないかとは思うのだが、この書物で書かれているブラウニングの主張も、どっちつかずであいまいなところがあると思う。
 つまり、わたしはなぜ「普通に平和な生活を営んでいた人が、<人を殺める>という<一線>を越えてしまうのか?」ということこそ知りたかったのだが、「その<一線>を越えない人は5~10パーセントいたよ」ということはわかったものの、残りの90~95パーセントの人はなぜ、<人を殺める>ということを遂行したのか、そこに「躊躇」はなかったのか? 躊躇があったとしたらそれはどのようなもので、彼はどのような意識でその「躊躇」を乗り越えたのか?ということを知りたかったのだ。

 ひとつ学んだのは、この本の中にちょっとだけ、アドルノの『権威主義的パーソナリティ』の紹介があり、そこにその権威主義のリストが書かれていた。それは、

・因習的価値への厳格な固執
・権威ある人物に対する服従
・外部集団に対する攻撃傾向
・内省や反省や独創性への抵抗
・迷信やステレオタイプ化への傾倒
・力と「逞しさ」への心酔
・破壊衝動とシニシズム心理的投射(「世界では野性的で、危険なことが進行していると信じる傾向」、そして「無意識の情緒的衝動を外部へ投射すること)
・性に関する誇大な関心

 ということで、アドルノらの結論によれば、反民主主義的な個人は「心の底に強力な攻撃衝動を抱いて」おり、ファシスト運動は、公認の暴力によって、この破壊衝動をイデオロギー的に標的とされた外部集団に投射することを彼に許すことになるという。
 これは、これこそまさに、今の日本にある「嫌韓」意識を説明するものではあろうか、とは思う。
 

2019-12-06(Fri)

 天気予報の通りに寒くなった。空はどんよりと曇っていて、外をふらつく気にもならず、仕事を終えてまっすぐに帰宅し、リヴィングでネコのように丸くなって、自分のからだの表面積を小さくしようと努めるのだった。さて、明日はいろいろと出かけようと計画していたのだが、明日は今日よりももっと寒くなり、ひょっとしたら初雪になるかもしれないという。そのな日に外に出る勇気があるだろうか。

 そう、先週洗濯をさぼって洗濯物がたまっているので、何としても今日は洗濯をしなくてはならない。しかし洗濯をして干しても、この天候では洗濯物はとうぶん乾かないだろうか。
 とりあえず洗濯物を外に干してみたけれども、3時ごろからは薄日も射すようになり、暗くなる前に洗濯物を取り込んでみたら、けっこう乾いていた。日暮れ時の外の空はこんな感じだった。

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 昨日Amazonでニェネントの固形食(カリカリ)が一気に値上げされていて驚いたのだけれども、今日スマホをいじっていたらそのカリカリのAmazonの広告が目に入った。「値上げしたくせに」と思いつつもクリックしてみてみると、なんと、昨日みた価格よりもはるかに安い価格になっていて、驚いた。
 帰宅してもういちどチェックしてみると、パッケージの大きさが違うせいなのかどうなのか、前回買ったときよりもさらに安値になっている。どうやらAmazonは今、年末の大きなセールが始まったようで、そのせいもあっての安値でもあるようだ。「これは買わなくては」と、さっそくに注文をした。

 読んでいた『普通の人びと ホロコーストと第101警察予備大隊』を予定通りに読み終え、その関連で読んでみたい本も出てきたのだけれども、ここは浮気しないで、また来週からは「カフカ全集」に戻ることにしよう。
 今日は、DVD西部劇集から『遠い太鼓』を観たが、あまり西部劇っぽくはなかった。