ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

2019-12-07(Sat)

 寒い。予報の通りに、早朝には横浜で初雪が降ったという。今日はひょっとしたらいろいろと出かけてみようかという気もちも多少あったのだが、この地域の日中の最高気温は5度ぐらいだということだし、わざわざ風邪をひくリスクを冒してお出かけすることもない。それに、今までの経過では12月は驚くぐらいの貯蓄が出来なくもない。そうなると「どのくらい残せるかやってみたい」という気にもなってしまう。
 ただ、来年2月末の「地点」の公演の一般予約受付が今日からで、「やはり観たいよな」と予約をしてしまった。まだS席ではないA席も残っていたのでA席にしたけれども、そんなに安くもないのだ。座席指定で位置的にはS席のすぐ後ろの席だったから、ちょっと得をした気分ではあるが、まあ久々の観劇予約ではある。

 ニェネントは、凍えている。器用にわたしの布団と毛布とのあいだにもぐりこみ、外から見たのではいったいどこにいるのかわからない「忍法」である。
 そうっと毛布をめくってみると、ニェネントが顔をのぞかせて「にゃ~」となく。

     f:id:crosstalk:20191208101339j:plain:w500

 もう、布団はニェネントの毛だらけではあるが、今は掃除するのもめんどうである。

 今日は、もうずいぶん前に買ったまま放置してあったDVD『ジョアンナ』をようやっと観た。ほんとうは今日はDVDを2本観ようと思っていたのだが、『ジョアンナ』を観終えて「ちょっと本を読もう」と和室のベッドに行ったら、案の定そのまま寝てしまったのだった。
 

『遠い太鼓』(1951) ラウール・ウォルシュ:監督

遠い太鼓 [DVD]

遠い太鼓 [DVD]

 なかなかに面倒な映画である。これは「西部劇」というものではなく、「西部劇前史」というか、フロリダを舞台とするセミノール(先住民)とアメリカ軍との闘争(戦争)をテーマとしており、時代的にもこの映画で描かれているのは1840年前後のことらしい。アメリカ先住民はこの「セミノール戦争」のことを「インディアンのヴェトナム戦争」と呼んでいるらしい。この映画を観ても、それがジャングルを舞台としたゲリラ戦の様相を示していたことがわかる。
 そして、先住民がこれを「インディアンのヴェトナム戦争」と呼んだように、期せずしてこの作品、あのヴェトナム戦争を舞台にした『地獄の黙示録』に酷似したところがあるではないか。

 まるで『地獄の黙示録』でウィラード大尉がカーツ大佐を探し求めるように、この作品でもタッフ中尉という人物が、すでに何年もこの奥地で暮らしているワイアット大尉(ゲイリー・クーパー)のところへと行く。出会ったワイアット大尉はすでにスペイン統治下の土地に同化していて、すでに亡き現地妻とのあいだに男の子ももうけている。ここまでの展開はほんと、まるで『地獄の黙示録』だ。
 ここからはタッフとワイアットが協力して先住民の砦を攻撃し、捕虜になっていたヨーロッパ人を救い出し、共にジャングルの中を追ってくる先住民から逃げるのである。ただただ、ジャングルの中を先に進む。ほとんどが沼沢地帯で、ワニはいるし毒蛇はいるしたいへんである。助けたヨーロッパ人の中にジュデイというわけのわかんない女性もいて、ゲイリー・クーパーとわけのわかんないロマンスを展開もする。

 けっきょく、追ってきたセミノールの長とゲイリー・クーパーとが水中で一対一での対決をして、まあセミノールの長が負ければセミノール勢は皆追うのをやめるだろうということである。ある意味、「先住民撃退」という侵略者的映画ではある。

 何が面白いのかよくわからないということで面白い映画で、先に書いたように『地獄の黙示録』かよ!というところもあるし、延々とつづくジャングルの描写はそれなりに強烈に力があふれているというか、ヘルツォークの作品さえ思い浮かべてしまうではないか。
 

『増補 普通の人びと ホロコーストと第101警察予備大隊』クリストファー・R・ブラウニング:著 谷喬夫:訳(ちくま学芸文庫)

 今、ツィッターをみていると、「普通の日本人」とプロフィールに書いている人物がたいていは安倍支持の反動右翼、レイシスト(いわゆる「ネトウヨ」)であることもあり、そういう「自分は<普通>」という人たちが、例えば日本では関東大震災の時に朝鮮の人たちを虐殺し、戦時下では南京やマニラでの<大虐殺>を起こしている。そのような<犯罪>を犯した日本人らは、生活の上では温厚な人ではなかったのだろうか。
 今の日本でも、朝鮮の人たちを排斥しようとするレイシストの活動が目立つようになっている。そういう<レイシスト>たちを「普通の日本人」と呼ぶことは出来ないだろうが、どうも一般の人たちの精神においても「嫌韓」という意識は広まっているみたいだ。
 はたして、そんな「嫌韓」意識を持つ「普通の」人たちは、<有事>の際、あの<ホロコースト>のような行動を取るのだろうか? もしも日本人がそのような行為を行うとして、それはどのようなきっかけによることになるのだろうか? そういうことを知りたくてこの『普通の人びと』という本を読んだ。

 「警察予備大隊」とは、いわゆる「軍人」、「兵士」ではない。いわゆる通常警察なわけだけれども、つまり「国防軍」ら正規の軍隊の背後でさまざまな「警察的」業務に携わっていたらしい。ここで取り上げられた「第101警察予備大隊」はハンブルグで徴収された人びとで構成されていたようだが、つまりは徴兵の対象になっていなかった人びとを多く含み、四十代の人もかなり含まれていたという。
 そしてその「第101警察予備大隊」はポーランドに派遣され、まずはポーランドユダヤ人らの虐殺を携わることになる。

 わたしは不勉強で知らなかったのだが、ヒトラーナチスによるユダヤ人虐殺(ホロコースト)はアウシュヴィッツなどの「絶滅収容所」によるものだけではなく、まずは森などにユダヤ人を連行して射殺する「虐殺」があり、これはホロコーストによるユダヤ人犠牲者600万人のうち、20パーセントから25パーセントの数になるのだという。その「射殺」の具体的方法はこの本に書かれているが、おぞましくも残虐で、想像するだに恐ろしい行為だと思う。
 この「ユダヤ人射殺」に、「第101警察予備大隊」があたることになる。さいしょの虐殺、1942年7月のユゼフフでは1500人のユダヤ人が森に連れ込まれて撃ち殺されている。
 このとき、総括指揮者であったトラップ少佐は悩み、警察隊員に「やりたくないものはやらなくてはいい」という選択権を与え、自らも命令を出したあとに泣き崩れていたという(彼は戦後の裁判で死刑になるが)。
 警察予備大隊の隊員はそのように「いやなら参加しなくてよい」というサジェストを聞き、何人かの隊員は「やりたくない」と指令を拒否する。その数は5パーセントから10パーセントだという。
 第101警察予備大隊によるユダヤ人虐殺は、1943年11月までに3万8千人の数にのぼり、さらに絶滅収容所へ、彼らの運命を知りながら強制移送させたユダヤ人の数は4万5千人に及ぶ。

 著者のブラウニングはこれらの「事実」を記述しながらも、隊員のさまざまな対応について考察していく。中にはサディスト的に殺人を楽しむような「クソ野郎」もいたし、可能な限りユダヤ人に救いの手を差し伸べようとしたらしい隊員もいた。しかし、多くの隊員は結果として、ユダヤ人の殺りくに協力していたのだ。それはなぜか? ヒトラーの「ユダヤ人絶滅計画」に賛同したのか?

 この書物は「あとがき」が長い。それは、この書物が出版されたあとに、ダニエル・J・ゴールドハーゲンによる『普通のドイツ人とホロコーストヒトラーの自発的死刑執行人たち』という書物が話題を集めたことにより、ブラウニングによる、そのゴールドハーゲンへの「反論」が大きなスペースを占める。
 かんたんに言えば、ゴールドハーゲンは当時ヒトラーの「ユダヤ人殲滅計画」がドイツ人全般に浸透していた結果としての「虐殺」があった、というわけだが、そこにブラウニングは「異」を唱える。

 わたしは、この「あとがき」などを読んだ限りでは、ゴールドハーゲンの主張は一面的すぎるのではないかとは思うのだが、この書物で書かれているブラウニングの主張も、どっちつかずであいまいなところがあると思う。
 つまり、わたしはなぜ「普通に平和な生活を営んでいた人が、<人を殺める>という<一線>を越えてしまうのか?」ということこそ知りたかったのだが、「その<一線>を越えない人は5~10パーセントいたよ」ということはわかったものの、残りの90~95パーセントの人はなぜ、<人を殺める>ということを遂行したのか、そこに「躊躇」はなかったのか? 躊躇があったとしたらそれはどのようなもので、彼はどのような意識でその「躊躇」を乗り越えたのか?ということを知りたかったのだ。

 ひとつ学んだのは、この本の中にちょっとだけ、アドルノの『権威主義的パーソナリティ』の紹介があり、そこにその権威主義のリストが書かれていた。それは、

・因習的価値への厳格な固執
・権威ある人物に対する服従
・外部集団に対する攻撃傾向
・内省や反省や独創性への抵抗
・迷信やステレオタイプ化への傾倒
・力と「逞しさ」への心酔
・破壊衝動とシニシズム心理的投射(「世界では野性的で、危険なことが進行していると信じる傾向」、そして「無意識の情緒的衝動を外部へ投射すること)
・性に関する誇大な関心

 ということで、アドルノらの結論によれば、反民主主義的な個人は「心の底に強力な攻撃衝動を抱いて」おり、ファシスト運動は、公認の暴力によって、この破壊衝動をイデオロギー的に標的とされた外部集団に投射することを彼に許すことになるという。
 これは、これこそまさに、今の日本にある「嫌韓」意識を説明するものではあろうか、とは思う。
 

2019-12-06(Fri)

 天気予報の通りに寒くなった。空はどんよりと曇っていて、外をふらつく気にもならず、仕事を終えてまっすぐに帰宅し、リヴィングでネコのように丸くなって、自分のからだの表面積を小さくしようと努めるのだった。さて、明日はいろいろと出かけようと計画していたのだが、明日は今日よりももっと寒くなり、ひょっとしたら初雪になるかもしれないという。そのな日に外に出る勇気があるだろうか。

 そう、先週洗濯をさぼって洗濯物がたまっているので、何としても今日は洗濯をしなくてはならない。しかし洗濯をして干しても、この天候では洗濯物はとうぶん乾かないだろうか。
 とりあえず洗濯物を外に干してみたけれども、3時ごろからは薄日も射すようになり、暗くなる前に洗濯物を取り込んでみたら、けっこう乾いていた。日暮れ時の外の空はこんな感じだった。

     f:id:crosstalk:20191206164404j:plain:w500

 昨日Amazonでニェネントの固形食(カリカリ)が一気に値上げされていて驚いたのだけれども、今日スマホをいじっていたらそのカリカリのAmazonの広告が目に入った。「値上げしたくせに」と思いつつもクリックしてみてみると、なんと、昨日みた価格よりもはるかに安い価格になっていて、驚いた。
 帰宅してもういちどチェックしてみると、パッケージの大きさが違うせいなのかどうなのか、前回買ったときよりもさらに安値になっている。どうやらAmazonは今、年末の大きなセールが始まったようで、そのせいもあっての安値でもあるようだ。「これは買わなくては」と、さっそくに注文をした。

 読んでいた『普通の人びと ホロコーストと第101警察予備大隊』を予定通りに読み終え、その関連で読んでみたい本も出てきたのだけれども、ここは浮気しないで、また来週からは「カフカ全集」に戻ることにしよう。
 今日は、DVD西部劇集から『遠い太鼓』を観たが、あまり西部劇っぽくはなかった。
 

『シェーン』(1954) ジョージ・スティーヴンス:監督

シェーン HDリマスター [DVD]

シェーン HDリマスター [DVD]

  • 出版社/メーカー: 復刻シネマライブラリー
  • 発売日: 2018/09/10
  • メディア: DVD

 これは日本だけのことかもしれないけれども、「西部劇」といえばこの『シェーン』こそ!という雰囲気がある。そして、「孤高のヒーロー」といえば、この作品でアラン・ラッドの演じたシェーンだろうが!ということだ。日本ではテレビで何度も何度も放映されたはずで、わたしも観ているはずで、この不細工な子役の顔とかはしっかり覚えているし、ラストのエコーまでかけた「シェーン!カムバック!」の声だって記憶しておる。しかし、映画の内容はもうすっかり忘れていた。

 監督はジョージ・スティーヴンスで、かつてはフレッド・アステアの名作『有頂天時代』を監督した人物で、この『シェーン』の前後には『陽のあたる場所』だとか『ジャイアンツ』を撮っている、まあ名監督なのだが、西部劇はこの『シェーン』一作しか撮っていない。

 この作品には原作がちゃんとあるようだけれども、つまりは西部に移住してきた開拓民と、その土地を取り仕切ろうとする牧畜業者との紛争があり、その開拓民一家のところにシェーンという流れ者がやって来て、開拓民一家を助けて牧畜業者と対峙するというお話。いっしゅ「労働争議」みたいな展開で、開拓民にはシェーンが味方し、牧畜業者はジャック・ウィルソン(ジャック・パランス)という拳銃使いを呼び寄せるわけだ。ラストはシェーンとウィルソンとの決闘。

 まず、この作品でいいのは、短いショットでシェーンがやっかいになるスターレット家(夫と妻と息子)の生活をきっちりと描いているあたりで、夫のジョー(ヴァン・へフリン)もなかなかに勇気のある好漢だということがわかるし、シェーンの登場でちょっと心がゆれてしまう妻のマリアン(ジーン・アーサー)の描写が卓越。風景も、これは西部でも北の方なのだろうか、雪を頂いた高山の姿がいつもバックに見える。

 それで、やって来たウィルソンがまずは開拓民のひとりを撃ち殺すのだけれども、このシーンが雨のあとのぬかるみの道を舞台にしていて、陽の光が道の水たまりに反射して、映像として美しい。
 ラストの対決のシーンは夜で、シェーンは馬に乗ってウィルソンのいる酒場へと向かうのだけれども、このシーンはよくアメリカ映画にあるような「Day for Night(アメリカの夜)」ではなく、ほんとうに撮影可能ギリギリの薄暮時に撮影しているようだ(建物の窓からの明かりでわかる)。これはもちろん、真っ暗になってしまえば技術的に撮影は不可能なことだっただろうし、撮影可能な短い時間で撮っちゃってるのはたいへんなことだっただろうなと思う。美しい絵になっていた。あ、あと、「犬」ね。

 それで、わたしは勝手に、ラストにシェーンが去って行く場面というのは、昼間の青い空をバックに地平線にシェーンが消えていくようなものだと思い込んでいたのだけれども、ちがうじゃん! 決闘を終えてウィルソンを倒したシェーンが、自分も傷つきながら「オレは戻れない」と言って、山道を越えて去って行くのだね。ここから、「実はシェーンはウィルソンとの決闘で致命傷を負っていて、ひとりで死ぬために去って行くのだ」という解釈も生まれるらしいし、わたしもその見方に同意するところもある。ただ、原作では、成長した息子のジョーイが、遠い便りとしてシェーンの死を知るということがあるらしい。
 とにかくは「原罪」ともいうべきものを背負い、暗い雲の方へと向かっていくラストのシェーンの姿は、ただ「カッコいい」というものを越えた、「悪魔に魅入られたもの」というような姿がある。
 

2019-12-05(Thu)

 アフガニスタンで医療活動を継続され、世界平和へのひとつの規範を示されていた中村哲氏が、現地アフガニスタンで何者かに銃撃されて死亡されたとの報。ショックである。

 おだやかな好天がつづいているのだが、明日からはまた寒くなり、明後日土曜日には東京でも初雪が降るかもしれない、などというニュースを読んだ。それは大変だ。実はいろいろと計画を立てて、その土曜日には都現代美術館にDumbTypeの展示を観に行って、そのあとあちこち動き回ってみようかと思っていただけに、「あらあら」という感じではある。

 今、電車の中だとか勤務中の休憩時間とかには先週買った文庫『普通の人びと ホロコーストと第101警察予備大隊』を読んでいるのだけれども、どうやら明日中には読み終えられそうだ。500ページの本を月曜日から5日間で読むというのは、つまり一日に100ページぐらいのスピードか。もちろんその本の内容だとか文体だとかいろいろな条件で読むスピードは変わり、先日読んでいたカフカ全集の第3巻は読み終えるのに2ヶ月かかってしまった。ほんとうは500ページぐらいの本なら3日で読み終えたいところだけれども(読みやすい小説とかならいけるのだが)、まあちょっとこのところスローペースだ。

 ニェネントの朝食の固形食(カリカリ)のさいごの一袋の封を切ったので、「また前回のようにAmazonで注文しようか」と思って前回の注文品をみてみたら、なんと400円ぐらい値上げされていた。それはひどい。それでは近所のスーパーで買うのと大差なくなってしまっている。こんどスーパーに行ったら「価格調査」をやってみなくてはならない。

     f:id:crosstalk:20191128163356j:plain:w500

 今日は日曜日につくったカレーの残りをようやく全部食べ終え、DVDは『シェーン』を観た。
 

2019-12-04(Wed)

 今日も晴天で昼は寒くない。それでもニェネントは「寒いねー」と感じているらしく、わたしが仕事から帰るとベッドの布団とか毛布の中にもぐりこんでいて出てこない。しばらくわたしがリヴィングでごちゃごちゃやっていると、「お、アイツも帰って来たのか!」てな感じで、ベッドのある和室から這い出してきてわたしのまわりでゴロゴロしはじめる。それでもわたしがちっとも相手にしないせいか、「なんだ、つまんないの!」というところで和室に戻って行ってしまう。
 今日はそんな、和室のキャットタワーの上でくつろいでいるニェネントのところに行き、写真を何枚か撮ってみた。

     f:id:crosstalk:20191203153646j:plain:w500

     f:id:crosstalk:20191203153848j:plain:w500

 ‥‥ニェネントは、思ったより舌が長いのだった。

     f:id:crosstalk:20191203153753j:plain:w500

 ニェネントの夕食の時間は、毎日午後4時だ。その頃になるとニェネントはわたしのそばに来て、座り込んで「ごはん」を待っている。そんなニェネントをみて、時計を見比べて「まだ早いよ!」と無視をしていても、だいたい4時に近くなると「もういいか」と思って、ニェネントに「ごはんだよ!」というと、ニェネントは「ごはん」という言葉はわかるようで、ニャンニャンとないて前足を前に大きく伸ばして、大きな伸びをする。ニェネントのひとつのクライマックスだ。それで夕食は「ネコ缶」なので、お皿にネコ缶から出してあげる。ニェネント、がっつく。これがニェネントの夕食である。

 そうやって今日はちょっと早くにニェネントの夕食を出してあげ、わたしは買い物に出かけた。
 今日の目標は、レタスを安く買いたい。今はどこのスーパーもレタスはひと玉198円ぐらいするが、いちばん北のスーパーならもっと安いにちがいない。そう思って行ってみると、ほ~ら、けっこう大きなレタスの玉が139円ではないか。こういうのが「お買い物」の面白さだ。
 あと、「たこ麻辣」という、小さな訳の分からないパッケージが置いてあって、量は少ないのだけれども100円ぽっちなので買ってみた。

     f:id:crosstalk:20191204184402j:plain:w500

 これが、酒のおつまみとしてけっこうイケる感じだったし、これでご飯も進みそうだった。ときどき買ってみようと思った。

 スーパーの前の道路から西をみるとちょうど日暮れ時で、その陽が沈んでいくところに富士山の影がみえた。わたしの住んでいるところから富士山が見えるスポットというのはまずなくって、駅の階段を上がって降りるところから振り返ると見えたことがあって、「ここからも富士山は見えるのか」と思ったものだったけれども、そのスポットは鉄塔がそばにあってあまりいいスポットではない。今日見えた場所もそれほど絶景ではないし、富士山も裾野の拡がりが見えないからあまり「おお!富士!」という感じでもない。でも、この富士山が見える坂道はやはり、「富士見坂」というらしい。

     f:id:crosstalk:20191205162415p:plain:w500