ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

2019-05-12(Sun)

 面白い夢をみた。わたしは有村架純にそっくりの女の子と知り合い、親しくなって結婚することになったのだが、そこに何か事情を抱えた男性が登場し、彼女はわたしとの結婚は名目上のことにして、その男性と四国へ飛行機で飛んで行く。簡単に書くとこういう夢であるが、いろいろとディテールのある夢だった。小説にしてみたら面白いかもしれないぞ。
 わたしは別に有村架純のファンとかではなかったのだが、夢をみて「このかわいい子は誰かに似ている」と考えたら有村架純だった。

 それで目覚めてリヴィングへ行くと、このところ気になっている蛾がこの朝は5~6匹飛び回っていて、この数になるともう、「部屋が<蛾>にあふれている」という感覚。おそらくは押し入れの中かどこかに孵化を待つさなぎがいっぱいいて、それが日ごと順番に成虫へと孵化して飛び回るようになるのだろう。この朝は迷わずに殺虫剤を噴霧した。

 ニェネントのネコ缶が残り少なくなったので、買うために午後から家を出た。いつもニェネントに買っているネコ缶はこのあたりにはあまり置いてなく、我孫子の図書館のそばのドラッグストアでいつも買っている。たまにウチの近くで売っているのも見つけるのだが、3缶で税を入れると250円を越す。いつも買う店より30円以上高いので買わない。普段は「図書館へ行くついで」で買っていたのだけれども、今は図書館に用はないので、ただネコ缶を買うために片道20分以上歩く。前に「わたしがニェネントにあげている食事(朝はカリカリ、夕方はネコ缶)は品質的に大丈夫なのだろうか?」と気になって調べたことがあるのだが、あるサイトではわたしが買っているカリカリ、ネコ缶がどっちもそのサイトでの「おすすめ」の2位に入っていて、安心したものだった。
 そういうわけでドラッグストアへ着き、だいたい一ヶ月分をまとめ買いし、「せっかくここまで来たのだから」と、目の前の手賀沼に寄ってみる。
 遠くにいた一羽のハクチョウが、ちょうどこちらの方にやって来るところで、近くにいた子供たちのところに近づいてきた。エサがもらえると思ったのだろうか。そばの大人が「ハクチョウは意外と狂暴だから気をつけて」とか言っている。

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 帰宅して今日から始まった相撲を見てから夕食(今日はレバニラ炒め)をつくり、のんびりテレビを見る。8時になって、いつも見るのを忘れてしまう「日曜美術館」を見ると、この日は開催中の展覧会に合わせたギュスターヴ・モローの特集だった。先週の朝の放映の再放送だけれども、先週「しまった、見逃してしまった」と思っていただけに、ラッキーだった。
 

ローザス『A Love Supreme~至上の愛』サルヴァ・サンチス、アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケル:振付 ジョン・コルトレーン<至上の愛>:音楽 @池袋・東京芸術劇場プレイハウス

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 ジョン・コルトレーンの同タイトルのアルバムをそっくり踊るということらしかったけど、わたしはジャズはいろいろ聞いていたけれどもコルトレーンはあんまし聴いてなかったのです。「至上の愛」も買わなかったし。

 Rosasの舞台は4人の男性ダンサーだけで踊るということで、「それって、コルトレーンのカルテットのミュージシャン4人に対応させた<アテ振り>なのかな?」とは思っていたのだけれども、観ていたらまさに「振り当て」られていて、実はちょっと意外だったというか、「やっぱりそう来たか」というか。
 コルトレーンの音楽は微妙にポリリズムだし、当時のジャズの「それぞれが交代でソロ演奏やるのよ」というところから発展して、グループでの音を追及してるところもあるし、そして東洋志向もあるし、(こういっちゃなんだけれども)ダンスとして組み立てやすいというか、見栄えのする作品にはなると思う。

 しなやかなダンサー4人の動きを観ているのは気もちがよかったし、それぞれのからみ方も観て興味深かった。でも、どこか「コンテンポラリー」の中の「モダン」という感じでもあり、「コルトレーンの録音から50年」という、「時の経過、時の隔たり」というものは感じられなかったように受け止めた。つまりもうちょっと、「音をダンスに置き換えた」というものを越えたものが見たかったな(Rosasが前にやった「ビッチェズ・ブリュー」みたいな?)。

 気になったのが床に描かれたアパートの間取り図(1DK4部屋?)みたいな図形で、それが「カバラ」の図象みたいにも見えて、すっごい興味深かったのでした(これは後日関係者のMさんが書かれていたのを読むと、「フィボナッチ数列に基づく線」だということだけれども、ど~ゆ~ことなのか、いずれMさんに聞いてみたいと思っている)。
 

『ビル・エヴァンス タイム・リメンバード』ブルース・スピーゲル:制作・編集・監督

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 ビル・エヴァンスは、おそらくわたしのいちばん好きなジャズ・ミュージシャンだろう。ジャズのレコードでいちばんたくさん所有していたのも、ビル・エヴァンスのレコードだった。もちろん最も聴いたのは最初のトリオでの4枚だったけれども、それ以外の録音もよく聴いたが、1980年に彼が亡くなられた頃には、もう彼の新作などは聴かなくなっていた。

 ビル・エヴァンスの生涯、そして音楽キャリアについては大まかに知ってはいたけれども、特に彼のプライヴェートな生き方のことなどはまるで知らなかった。2015年に製作されたこのドキュメンタリーは、ビルとプレイしたポール・モチアンジム・ホール、ビルのプロデューサーだったオリン・キープニューズ、そして同時代のジャズ・シンガージョン・ヘンドリックスらの撮影後亡くなられた方へのインタビューも含まれ、貴重な記録になっていると思う(というか、これ以前にビルのドキュメントが撮られていないのも不思議だ)。名曲「Waltz for Debby」をビルから捧げられた当人、姪のデビー・エヴァンスも出演していたのが、何となくうれしくもあった。

 ビルの死は長年の麻薬への過度の依存が原因といえるだろう。「もっとも時間をかけた<自殺>だった」とも言われ、身近な人たちの<死>をいくつも体験したビルは、早くから世をはかなむような精神を持っていたように言われていたし、それは彼の内省的な音楽とも合わさって、まさにひとつの「ビル・エヴァンス像」というものをつくっていたのではないだろうか。わたしもそういう意味で、彼がのぞき込んだ<絶望>とかがあるとすればそれを知りたくて、このドキュメント映画を観ることにしたところがある。それはどこか、「メランコリーへのあこがれ」のようなものだろうか。そのことが彼の産み出した素晴らしい音楽とどのようにリンクしていたのか、それともしていなかったのか、そういうところも知りたいと思っていた。

 そういう興味からこの映画を観て、やはりビルの音楽キャリアの初期からの共演者、ポール・モチアンの出演は大きかったし、ビルの親族らの証言も不可欠だった。そしてビル・エヴァンス本人の語る多くの言葉。
 ビルの活動は1950年代から70年代にかけてのことだからそれなりに映像も残っているのだけれども、やはり有名な最初のトリオの演奏する映像が残っていないのは、いかにも残念なことだ。まあこのことは下手したらあのヴィレッジ・ヴァンガードでのライヴ録音だって残されていなかったということもあり得るのだから、あの素晴らしいライヴが残されたということに感謝すべきだろうか。

 わたしはずいぶん前にWikipediaビル・エヴァンスの項を読んでいて、その内容がずいぶん印象に残っていたのだけれども、そこではビルの麻薬への悪癖は徴兵されての兵役時に始まると書かれていたのだが、このドキュメントではさらりと、「ステージへのプレッシャーで始めた」というような説明ではあった。しかし、Wikipediaに書かれていた「麻薬による指のむくみ」や「歯の疾患」などはじっさいの映像で確認できたように思ったりはした。
 しかし、長く連れ添った恋人の自殺の原因はビルが新しい恋人を作り、その恋人を彼女に紹介したことによる、などというのは知らなかったし、彼のイメージが覆った気もした。プライヴェート映像で、ひょうきんにおどけて見せる姿にもびっくりだ(子供がいたことも知らなかった)。
 そういうところでビルののぞき込んだ<絶望>とは、やはり兄の死(自殺)によるところがいちばん大きかったのだろうが、その前に最初のトリオのベーシストのスコット・ラファロの事故死もあるだろうし、やはり<麻薬>から足を抜くことのできない自己嫌悪は厭世観へとつながっている気もする。恋人の自殺のあとに新しい彼女と大きな結婚式を挙げるなどというのは、わたしには彼の気もちはわからないが。

 時代にそって、彼の音楽が多数紹介され(もちろんホンのイントロだけ、というのが多いが)、また彼の音楽をあれこれと聴きたくなってしまったし、意外というか、わたしは彼の組んだトリオのメンバーを、最初のそれから最後まで、すべての名を記憶していたのだった。そういうところでは、いちばん長くビルとプレイした名ベーシストのエディ・ゴメスが、このフィルムに姿を見せて証言していなかったのは寂しいか。

 ほんとうはもうちょっとじっくりとライヴ映像など観ながら、音楽をいろいろとゆっくり聴けるような作品であればうれしかっただろうが、84分の尺では、ちょっと駆け足をしたという感覚は免れない思いがした。
 

2019-05-11(Sat)

 今日はまず渋谷に出て、ジャズ・ピアニストのビル・エヴァンスドキュメンタリー映画ビル・エヴァンス タイム・リメンバード』を観て、そのあと池袋でRosasがジョン・コルトレーンで踊る『至上の愛』を観ようという計画。ジャズ三昧である。
 渋谷の映画は10時45分から開映で12時15分ぐらいまで。池袋のRosasは2時半開場だから、渋谷か池袋で多少時間をつぶさなければならないだろう。本屋にでも行こうかと思う。
 考えて、もう40年近く前に亡くなっているビル・エヴァンスにそこまで一般人気もないだろうし、映画館では一日に5~6回上映しているし、そんなに混むことはないだろうと踏んだのだが、また渋谷で道に迷うかもしれないので8時ごろに家を出る。計算では上映開始の30分以上前に渋谷に着く。

 今日は晴天で、春を通り越して夏日になるところもあるというけれども、このところ天気予報はあてにならないし、映画館や劇場に行くわけだから薄手のジャケットをひっかけて出かけた。

 渋谷の街は来るたびにその姿が変わる。

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 案の定、渋谷で少し迷い、映画館に到着したのは開映20分ちょっと前になってしまった。それでチケットを買い、席を決めようとしたら、思いもかけずに混み合っていて、一番前の列か後ろの方二列ぐらいにしか空席が残っていなかった。映写室自体そんなに大きくないとはいえ、ここまでに混んでいるとは思っていなかった。
 それで開場して映写室に入ると、意外に若いお客さんが多いことにもちょっと驚いた。わたしは、例えば舞踏の公演みたいに、けっこう年配の「むかしジャズ喫茶とか入り浸ってんだぜ」みたいなお方(わたしもな)が多くて、そんな方々が舞踏公演で「土方はね~」とかのたまわれている感じで「マイルスはね~」とか語ってらっしゃるのではないかと思ったりしていたのだが(わたしはそんなことは語らない)、その予想は大きく外れた。もちろんそんなおじさまもいらっしゃるけれども、若いお客さんに押されて隅っこにやられているような印象。

 映画はミュージシャンの生涯を追うドキュメントだから、音楽も(細切れながら)いっぱい聴けるし、「そんなことがあったのか」というようなこともあったし、いろいろと回顧モードに浸ってしまった。

 映画が終わって12時15分ぐらい。近くの「富士そば」で軽便な昼食を済ませ、しばらくは東急の中のジュンク堂で書棚を見ながら時間をつぶした。「そうか、こんな本が出ていたのか」とか思いながら店内を廻り、自分がいちばん気になったのは宮川淳の本。宮川淳はもうずいぶんと以前に亡くなられた美術評論家/フランス文学者だけれども、意外とこうやって新刊書の書店で彼の著作が並んでいるのをみると、またキチンと彼の本を読んでみたくなった。

 2時が近くなったので池袋に移動。次はダンスカンパニー「Rosas」が踊るジョン・コルトレーンの『至上の愛』を観る。わたしの席は2階席の最前列で、全体を見渡すにはいい席だった。
 感想は別に書くとして、終演時でまだ4時ぐらいで、帰宅してもまだ外は明るかった。途中下車してとなり駅のスーパーで寿司弁当を買って帰り、またこの夜もビル・エヴァンスを聴きながら寝るのだった。
 

2019-05-10(Fri)

 春も深まると、いろいろと虫の姿をみることが多くなる。外を歩いていると出会う飛んでいる蝶や蜂、地面を這っているダンゴムシとかでも、目を楽しませられる思いで好きである。

        

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(この写真に虫はいないけれども)

 たいていの虫は好きなのだが、これが部屋の中に出没する虫になると好きだとか言っていられない。撲滅したくなる。
 幸いわたしの部屋には室内虫の代表選手のゴキブリはほとんど現れないのだけれども、「皆無」というわけではないので、とつぜんに繁殖してあちこちに姿を見せるようになるのではないかと恐れている。
 そんな感じでゴキブリはほぼいないのだけれども、どうも2年前に転居してきたときに「蛾」の卵だか幼虫だかもいっしょに連れてきたようで、それが去年もこの季節に繁殖して部屋の中を飛び回ったのだけれども、今年もまた、その子孫が孵化する時期になって、部屋の中に蛾が飛び交う。特に寝るときに本を読んでいると、その明かりに集まってくる。まあ数にして3匹ぐらいで、そんなに「大量発生」しているわけではないけれども、蛾というのは部屋の中に1匹飛んでいるだけで目ざわりだ。殺虫剤で退治すればいいのだけれども、なんか殺虫剤というのは自分の中の「虫」的な部分に有害だろうと思い、あまり使いたくない。窓を大きく開けておけば外に行ってしまうこともあるのだろうけれども、窓を開けるとウチのニェネントが外に出て行ってしまうこともあり、部屋の窓を大きく開けるということは、いまだに一度もやったことがないのだ。
 引っ越しで連れてきてしまった虫というと、あと「クモ」がいた。薄茶色をして細長い胴とすっごく長い足を持つクモで、部屋の隅に巣をはる。これがやはり卵の姿でいっしょにこの部屋に来てしまったのだろう。さいしょの一年は、けっこうな数のクモが部屋の隅とかでうろちょろしていたものだった。幸いクモは飛ばないし、動きも結構のろいので、見かけるとティッシュで包み取ってトイレで流したりして、今ではこの部屋ではすべて絶滅してしまったようだ。

 夜中に咳が出て目が覚める。繰り返して咳が出て、のどが痛い。風邪が完治していない。目覚めているときは鼻水が止まらない。もう風邪の後期症状だと思うから、あとはただ治癒するのを待つだけだろうか。まだしばらくはかかるだろう。

 今日は仕事を終えたあと、金曜日ではあるし、映画(ビル・エヴァンスのドキュメンタリー)を観るとか展覧会(ギュスターヴ・モロー展)を観るとかしようかとも思ったけれども、展覧会はまだ6月末までやっているし、明日は池袋に「Rosas」の公演、コルトレーンの「至上の愛」を踊るというのを観に行くわけで、明日早くに家を出てビル・エヴァンスの映画を観て、「ジャズにどっぷり」の一日にしようというつもりになった。
 それで帰宅して懸案の作業を続けようと思ったのだが、やはり「なまけぐせ」が出てしまい、けっきょく何もやらないでしまった。
 週初めにつくったカレーを昨日にようやく食べ終わり、今日は冷凍庫に放り込んであった「さばの味醂干し」を食べることにした。冷蔵庫に移して解凍し、レンジで焼こうとしたが、いつも焼くときに焦がしてしまったりして失敗するので、トースターで焼くと失敗しないのではと思い、アルミホイルを敷いてトースターで焼いてみた。これがうまく行って、うまみが逃げないというか、レンジで焼くよりもおいしく食べられたように思う。ニェネントが「何食べてんのよ」と寄って来たので、「塩分も多くないからいいか」と、少しだけ分けてやった(これが「塩焼き」だと、ニェネントくんはダメよ~)。
 

2019-05-09(Thu)

 夢。木造の納屋だか倉庫だかみたいな建物の中で、パフォーマンスが行われている。出演者はヨーロッパの人たちで、夢の中では「スカンジナビア」の人たち、とか聞いたように思うが、わたしが声をかけた人はスペインから来た人だった。「パフォーマンス」というか、舞台の上でディスカッションをしているのがそのまま「作品」になっているような、ちょっと前衛的な舞台。
 建物の外は雪が積もっていて、あたり一面真っ白なのだが、わたしが見ているとそばの木に積もった雪が崩れ落ち、舞い上がった雪がまるで爆弾が落ちたときのように見えるのだが、それが「雪」なのでとっても美しく見えた。近くにいたおかっぱの若い女性がわたしに好意をもってくれたのか、わたしに話しかけてきて、わたしはちょこっとヤニ下がるのだった。
 海外からカンパニーを招聘されているMさんとも夢の中でお会いしたので、この週末にそのMさん関連で公演のある、わたしも観に行くベルギーのダンス・カンパニー、「Rosas」からの連想で見た夢だろうかと思う。

 そういうことで、先日Tさんらと会ったときの会話で面白かったことを、忘れないうちに書いておこう。
 これはTさんらが海外公演(おそらくはカナダ)に行ったときの話で、オフタイムにスタッフらがカフェだかバーだかに飲みに行ったときのこと。皆で飲んでいてコップがもうひとつ欲しくなり、誰かがウェイターに「グラスをくれ」と伝えたら、ウェイターは顔色を変えて裏に引っ込み、別のスタッフとこっちを見ながら相談を始めてしまったというのだ。これはもちろん、日本人の苦手な「L」と「R」の発音の問題だ。けっこう笑えたお話(そもそも、Tさんのスタッフらはぜったい「カタギ」には見えないし)。

 どうも風邪が抜けきらないというか、鼻水が止まらない。それで今朝の天気予報では「今日の昼は昨日より暑くなる」ようなことをいっていたので、ちょっと薄着で出勤してみたら、ちっとも暑くはないではないか。パラパラと雨も降るし、天気予報外れてるではないかと思う。このところ、天気予報はけっこう外れていると思う。

 先日、池袋で八十ウン歳の男性の運転する車が暴走し、自転車に乗っていた小さな子とそのお母さんとが死亡する事故があった。運転していた男性はどこかの会社での重鎮だったという人物で、何らかの勲章も授与されていたらしい。それで明らかにその男性の過失運転が原因なのだけれども、いまだに彼は逮捕されないでいて、Twitterなどでは皆が騒いでいる。「上級国民は何をやっても罪に問われないのだ」などと言われて、「上級国民」という言葉がヒットしている。
 それで昨日、滋賀県で保育園児が集団で「おさんぽ」に出かけているとき、右折する車を避けそこねた車が園児の列に突っ込んでしまい、園児が死亡する事故があった。これを受けてなぜかテレビ局はその保育園関係者と記者会見を開き、記者が「出かける前は園児さんらはどんな様子だったんですか?」などという<無意味>では済まない質問をして、園長の女性が泣き崩れてしまう映像がテレビで何度も放映された。
 これはまさに先日読んだ「報道の<脳死>」の好例(「好例」という言い方で済まされるものではないが)で、質問をした記者は何とかして園長の女性を涙させ、その映像を撮ろうとしたのだろう。「卑劣漢」ということばを思い浮かべるしかないが、こんなことをやるのなら池袋で母子を轢き殺した男に突撃取材でもやってみればいいのだ。今の日本の報道は万事がこの調子なのだから、わたしもまた泣き崩れたくなってしまう。
 

『近代科学とアナーキズム』ピョートル・クロポトキン:著 勝田吉太郎:訳(世界の名著『プルードン/バクーニン/クロポトキン』より)

 アナーキズム無政府主義)というものは一般にプルードンによって思想として成立し、バクーニンが運動を発展させ、クロポトキンによってまとめられたもの、という見方ができるだろうか。ただ、プルードン以前のロバート・オーウェン、サン=シモン、シャルル・フーリエの「空想的社会主義」においてもアナーキズム的要素は強く、イギリスのウィリアム・ゴドウィン(メアリー・シェリーの父である)こそが最初にアナキズム的思想を確立したという見方も一般的である。

 クロポトキンは政治思想家である前に地理学者であり生物学者であり、その科学者としての思考法がアナーキズムというものの理論化に大きく影響している。この『近代科学とアナーキズム』においても、科学での「帰納法」に絶対的な信頼を置き、観念論、ヘーゲルの「弁証法」という思考法を排除する。これよ、ここにこそクロポトキンの<欠陥>があるというか、「民衆に理解できない論旨は役に立たない」という視点を取ってしまう。そういう意味では彼のアナーキズム理論は<素朴>といってしまってもいいものだと思うけれども、さすがに<科学者>というか、この『近代科学とアナーキズム』執筆時にはまだまだ<現在進行中>であったアナーキズム運動を、非常にわかりやすく説いていて、「アナーキズム入門」としては最良の書物になっているだろうか。

 しかし、この本に書かれている次の一説を読んでみよう。

十九世紀の過程では、国家は、工場所有権、商業、銀行を富める階級の手中に独占させ、農村の共同体から土地を収奪し、農民を重税によっておしつぶし、これらの富裕階級のために、安価な「労働力」を提供することによって、強大となっていったのだ。

 『近代科学とアナーキズム』はまずロシア語で1901年に書かれ、1912年に英語版、1913年にフランス語版が書かれたようなのだが、ここで書かれている「強大化する国家」の姿とは、まさに今の安倍政権下の日本ではないかと思ってしまう。つまり安倍政権は今の日本を百年前、いや、もっと以前の姿に逆行させようとしているわけだ。まさか百年以上前のこの本が、こうやってストレートに今の世界を読み解くよすがになるとは驚いてしまうではないか。

 クロポトキンの思想は<性善説>、<楽観主義>に裏打ちされていて、「クロポトキンさん、そうはいかないでしょ!」と思わせられてしまうし、例えばこの今の日本でアナーキズム的思想を展開している柄谷行人が、カントの至上命題「他者を手段としてでなく目的として扱え」ということばから出発しているわけだけれども、クロポトキンはそれを「われわれの理解を越えるものであり、われわれにとって、全く無縁のものである」と言ってしまうのである。ここに、クロポトキンの大きな大きな<限界>がある。
 それでもなお、「アナーキズムとは何か」と問うとき、まずはこのクロポトキンの著作から取り組むというのは「正しい選択」ではないだろうか、とは思う。